銀兎文庫::novels1
靴箱に似たシルエットの建物を幾つか通り過ぎ、自分の住む場所に向かう。さっきより傾いた太陽はオレンジ色の光を投げて、薄いグレイの建物を染めあげていた。
扉を開こうとスロットにカードキーを通そうとして ―― 小さなダイオードが解錠を示す緑色だ ―― 扉が開いていることに気がつく。ドアレバーに手をかけると、それは抵抗なく下がった。そのまま扉を明けて家に入ると、夕陽が遮られて急に暗くなった視界に、玄関にある靴を認める。その隣に自分も靴を脱ぐ。リビングに続く廊下に点々と脱ぎ散らかされた服を辿って奥へと向かうと、リビングの向こうのカヲルの部屋の扉が半分開いていた。灯りのついていない部屋の扉をもう少し開けて体を滑り込ませると、そこには予想通り、カヲルがベッドで眠り込んでいた。
後ろ手にそっと扉を閉めると、静かな空間に仄かにカヲルの呼吸する音がしている。ブラインドは下がっていたけれど、羽の隙間からもれた光がオレンジ色の長いストライプを作っていた。シーツの上にも、眠りこんだカヲルの頬の上にも、淡い銀の陰影のある鳩羽色の髪の上にも。それはまるで一幅の絵画か何かのような世界だ。同時に、夕日のオレンジはある世界を思わせる。あの液体。LCLと呼ばれた、水よりも僅かに重く血の匂いのする赤い水。私はカヲルがそれに浸っているところを自分の眼で見たことはないけれど、私は想像のその光景に見蕩れながら、そっとベッドの端に腰掛けた。
鼻の頭をオレンジの光の線が横切っている。手を延ばし、指の先でそっと触れてみた。
「…ん……」
もぞもぞとシーツを巻き込みながら、眠ったままのカヲルが眉を寄せる。ほっそりした腕が光を遮るように顔を覆う様は、まるで見えない涙を拭おうとしているかのよう。つられたように、私はさらに指先で寄せられた眉が作ったかすかな眉間のしわをなぞった。…なんだか少し楽しい。
そんなことを2、3度繰り返すと、軽く鼻を鳴らしながら、カヲルが薄く目蓋を開いた。それは一度ふっと閉じ、再び、今度はゆっくりと上がっていく。首を傾けるようにしてこちらを向いたカヲルが、まだ少し眠そうな眼で私を捉える。
「 ―― ああ…おかえり、レイ」
覗き込んでいる私に瞳を和ませるカヲルは、本当に綺麗だ。寝乱れた髪も白い顔を縁取る花弁の様。花に装飾がいらないようにカヲルには装飾がいらない。全てが余分になってしまうから、生まれたままが一番綺麗。
白い手が私へと延ばされ、私はその手に指を絡めた。薄い皮膚の下の骨の感触。長い指がゆっくりと私の手を握り返す。カヲルは触れることが好きだから。
「ただいま。…またずっと寝ていたの?」
カヲルは時々膨大な時間を眠りに費やす。その周期はまちまちだったけれど、おおよそ3〜4週間に1度くらいの間隔で、2〜3日はこうして外にも出ずに眠るのだ。今朝私が出かける間に見た時には起きれそうな様子でいたのに、結局また寝ていたらしい。
「行こうとしたんだよ。制服も着て。でも、エレベータが来るのを待ってたら急に凄く眠くなって。部屋に戻るのも大変だったけど、そこからベッドに戻るのが恐ろしく難しかった」
そんな風に眠る時は、できるだけ体を締め付けたくないようで、カヲルは何も身に纏わないのが常だった。部屋まで転々と続いていた衣服の痕跡からも、どれほど急激にその体が眠りに向かおうとしたのかが判る。
廊下で寝なかったんだから、それだけは誉めてくれないかな?と、カヲルは悪戯をみつけられた子供のように上目遣いで私を見る。これまでにも何度も直に床で寝てしまっていて、帰宅した彼に見つかるたびに怒られているから、どうやらそれには懲りているようだ。
「ええ、そうね。」
カヲルが必要としているのはいつもの睡眠とは違う種類の眠りのようで、一旦眠気が襲ってくると、それまで何をしていたとしても、それまでとそこからを普通の人のように「区切りをつける」ことは無理らしい。
例えば、お風呂で眠ってしまったことが何度もある。2時間も出てこないのを心配して彼が様子を見に行ったら、湯舟で眠ってしまって茹で卵のようになっていて、彼の方が慌てていたりした。一旦そうやって眠りこんでしまうと体が充足するまでは何をしても起きないから、そんな時は私と彼の2人がかりで浴槽からカヲルを引っ張りあげたり体を拭いたりしないといけなかった。
カヲルはとても痩せているから、男性としてもとても軽いけれど、全く意識のない体は意外に扱いにくい。この住まいの通路もそれほど広くない。風呂場から部屋まで運ぶのはそれなりの労力が必要で、それから比べれば、脱ぎ散らかされた服などは少しも問題じゃなかった。
「少しは進歩したかな、僕も?」
私が同意したので、カヲルは寝転がったまま柔らかく微笑う。私に触れられて眼を覚ましたことを思うと、どうやら今のところ睡眠は足りているようで、今なら少しは起きていられそうに見える。
私は足元に置いていた鞄を取り上げると、中から本をまとめて取り出した。
「これ。頼まれていたもの。」
『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
本の表紙を認めてカヲルが半身を起こす。それは21世紀の初めに出た本で、カヲルがこれまでに好んで読んでいたシリーズものの一冊だった。主人公の少年がお気に入りらしく、だってとても彼に似てるんだよ、と笑っていた。
「ありがとう、レイ。よく見つかったね」
受け取った本をぱらぱらと手繰りながら、カヲルの声がわずかにトーンをあげていた。セカンドインパクト以前の本は見つかりにくい。復刻される本は多いけれど、どうしても著名なものや大家の作品などが先なのだとカヲルがいう。けれどカヲルはジャンルを定めずに色々な本を読む。このシリーズは児童書の分類のせいか復刻も進んでいないようで、カヲルも書店に頼んで探していたけれど、いつもなかなか見つからないといっていた。それは図書館の方でも同じだったようで、検索依頼を出してから見つかるまで結構時間が経過していた。
「私じゃないわ。図書館の係の人に頼んでおいたの」
私がしたのは、用意されていたカードに本のタイトルと作者を記入して渡しただけ。後は学校のシステムとネットワークがしたことだ。
「どうして?同じことだよ」
カヲルは私の右手を取ると、指先に軽く口づけながら私と同じ色の眼を眇めた。
「レイがこの手でカードを書いて頼んでくれなかったら、今この本はここにないんだから。君が僕を気にかけてくれたことが、僕はとても嬉しいよ?」
声に表れる喜び、口元に浮かぶ笑み、眇められた瞳の輝き。嬉しいという様子。そんなものを眺めていると私も「嬉しい」気持ちがする。私のしたことがカヲルを喜ばせている。それが嬉しい。嬉しい気持ちは温かい飲み物のように、私の胸を柔らかく暖める。
嬉しい、という気持ちが温かいのだということを、私はカヲルと彼の2人から学んだ。
そして、それはもっと欲しくなるものだということも。
私達は二人とも、とても多くの事を学ぶ必要がある。生活の術や、常識や、自分自身の感情や ―― 人について。
私達は人の姿をしていて、きっと見た目だけでは違いを見つけることはできない。けれどほんのわずか、見た目とは異なる部分で、人とは違う。私とカヲル。そのわずかな差違が、戦いが終わった今でも(いいえ、今だからこそかしら?)、人の中で暮らす時には越えなければならない“段差”になることがあった。
その段差は私達が私達であることを否定することでも肯定することでもない。ただ、すでに出来上がっている人のシステムにとって、私達が一種の異分子であるのは事実だった。まるで、青い花の中では咲くはずのなかった白い花のように。私達もその事実を受け入れこそすれ、否定するつもりなどない。だから私達は、事実を受け入れるために段差を越えるための色んな方法を学ぶ。こうして人の住む場所で暮らす事も、学校に通う事もその一つだった。私達が学ぶことによって摩擦は減り、人も私達をより許容する。元使徒ではなく ―― 少し変わった人、と。それは、カヲルの言葉を借りれば「折り合い」ということになるのだろう。システムを動かしていくためにはバランスが必要。歩くためには右足の次に左足を出す、そんなふうに。
そして、私達にとって、学ぶことは苦ではない。
今となってはそれはある意味で喜びといえる。
you wish ? --
preview... + ...next
...retuern texts
ginto-bunko