銀兎文庫::novels1
終業のベルと共に最後の授業が終わって、下校の時間がきた。
先生が壇を降りると、まだ教室を出ていない内から、急に辺りが賑やかになる。クラブ活動をしている人達。掃除を始める人達。帰る人達。
いつもなら私も家へと帰るのだけれど、今日は図書室に寄る用事がある。
「これを」
選びだした数冊の本と一緒にIDカードを渡すと、見知った顔の係の生徒が受け取って、IDカードをパソコンの読み取りスロットに通す。ピ、と電子音がして私のカードが認識される。学生証を兼ねたIDカードは図書カードや保健記録カードを兼ね、学内の立ち入り可能な場所への身分証明にも使えるようになっていた。幾つかキーを叩いてから本とカードを差し出される。
「ええっと…今回の返却予定は来週の水曜です。 ―― あ、ちょっと待って…」
返されたカードと借りた本を鞄にしまって帰ろうとしていると、呼び止められた。
「前に綾波さんから検索依頼のあった本、見つかったみたいよ。今日届いてるの。貸し出し枠はまだ余裕あるから、よかったら一緒に持っていく?」
私が頷くと、彼女は私のカードを受け取った。後ろの棚の中からその本を出して、もう一度渡したIDカードと本のバーコードを読ませて貸し出し履歴に追加の処理を行う。たぶん彼女は作業に慣れているのだろう、ほとんど待つ必要はなかった。
「じゃぁ、これも来週の水曜が返却予定だから。あら、綾波さん、こんな本も読むの?どうだった?」
その人は、パソコンの画面を見たまま私に話し掛けてきていた。疑問に思ってカウンター越しにディスプレイ画面を覗き込んでみる。その画面には、私がこれまで借りた本の記録がリストになって並んでいた。
「…どれ?」
リストは見えているだけでも結構な数で、どれを差していわれたのかが判らないので聞いてみると、上の方から7番目くらいの題名を指差される。
『20世紀名言集 大犯罪者篇』
先々週に返却されているのに私が読んだ記憶がないので少し考えてしまった。それで思い出す。これは自分のために借りた本じゃないこと ―― あの人のために借りたのだから ―― 読んだ記憶がない理由を。ご飯を食べる途中でも時折ページをめくっていたせいであの人が怒られていたのも、つられて思い出した。
「…面白かったんじゃないかしら」
あの人が何度も怒られてもまだ読み続けて、とうとう最後には『とにかく食事中はダメ』と本を取り上げられてしまったくらいには。
「ふぅん、そうか。そうかも。でも意外だったな。綾波さんって色んなジャンル読んでるのね。ほら、これとか」
指が差したのはさらに5つほど下の題名。
『あかりのレシピ』
それも、本当は自分のために借りたのじゃなかったけれど、私も一緒に読んだから…いえ、むしろ『眺めた』かしら?…記憶にある。綺麗な色、柔らかな陰影、照らされる物達。幾重にも重なる光と影。それらはうっとりするほど美しかった。
「その本は、好きだわ」
そう答えながら、ふと思う。
この人、なんて名前だったろう。本を借りる時に時々ここで顔を会わせるのは、貸し出しが彼女の役割だからだけれど、こんなふうに話をしたことは一度もなかったと思う。多分、私は名前を知らない。
「 ―― あ、急にごめんなさい。綾波さんの図書記録、私が好きな本と割と重なってるなって思って、ちょっとね」
私が怪訝そうな顔をしたのかもしれない。彼女は少し申し訳なさそうに首を傾げた。
彼女の胸にあるIDには、草薙という名前が入っていた。
「ううん。いいの。…じゃぁ。」
“人は誰でも、相手に自分との接点を感じると親近感を感じるんだよ。”
あの人が前に教えてくれたことを思い出して、私は小さく微笑んだ。
「…そうなのね」
本を探すのに少し手間取ったから、図書館から出て校内を歩いていても人の数は疎らだった。帰る人は帰り、クラブがある人はまだ練習の最中だ。遠くで吹奏楽部の練習の音とグラウンドの運動部の声がしている。まるでそれが遠い潮騒のようで、この時間の校舎を一人で歩くのは割と好きだった。傾きかけた陽がガラス越しに斜に差し込み、薄暗さと明るさが奇妙なバランスで同居しているのは、どことなく水族館に似ている。
階段を降りて昇降口に向かい、並んだ靴箱をすり抜ける。まるで私達が住んでいるマンションのミニチュアみたいだわ、と思うと、人に住む場所があるように靴に決まった場所があることが少し可笑しい。
クラスの列に辿り着いて、靴を取り出そうと小さな扉を持ち上げ、私はそれに気がついた。
小さな白い紙袋。
取り出して手のひらに乗せても、片手に収まってしまいそうなそれはとても軽く、細い銀色のリボンテープと小さいメタリックブルーのシールで封じてあった。軽く振ってみると、中で小さなものがカタカタと動いている。
リボンテープに留めてあるごく小さなカードに気がついてそれを開くと、そこには細身の書体の印刷で「for You」の文字だけ。他には何も書いていない。
時々手紙が入っていたことはあったけれど、ものが入っていたのは初めてだったから、誰かと間違われたのかと思った。けれど、私の靴箱の場所は列の端の一番上だからとても分かりやすいし、扉には名前だってちゃんとついている。
「…私に、かしら」
誰からのものかも判らないし、それが意味するものも判らない。私は少し考えてから包みのまま鞄に入れ、嵩高くなった鞄を提げて帰途についた。
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