銀兎文庫::novels1
鏡台につっぷしていたミサトが、幽鬼のような表情で、呻くようにつぶやいた。
「どうしてなの、加持…」
怖いの?
そんなにお父様が怖いの…
私をこんな風に独りで放っておくことよりも、
お父様に逆らうほうが怖いのね、あなたは ──
ゆらりと顔を上げたミサトに、亡霊のような顔が視線を合わせていた。髪を乱し生気を失った亡霊のようなその顔。それは鏡に映った自分自身。もう若くはない。毎朝念入りに施す化粧が、自らの美しさを誇示するためのものから、肌の衰えを隠すためのものになったのはいつごろからだろう?
苦悩に似たどす黒い感情が、ミサトの中で渦巻いた。誰にともつかない ── やり場のない、この世の悪意を身に引き込んだらかくやと思わせるほどの、負の深遠。いつからか、それはミサトの中にしっかりと根をおろしていた。
女なら誰しも目を背けたくなるような、鏡に映った己の姿に、ミサトも思わず手で顔を覆う。しかし鏡の中の亡霊は、同じ動作の指の隙間から、底光りする目であざ嘲うようにミサトを見据えていた。どんなに望んでも振り切ることのできない自分自身であるかのように。
顔を覆う手から、かすかに栗の花のような匂いが漂う。
それにミサトが気付くと同時に、鏡の中の亡霊が目を眇めた。眉間に刻まれるしわが、生気を失った顔にさらなる陰鬱さをかもし出す。
成長期特有の滑らかな張りのある肌。女の子のように肌理の細かなそれが、ミサトを狂わせる。
無駄な肉などないしなやかな体、あどけなさの中に同居する、はっとするような一瞬の表情が、ミサトを苛立たせる。
シンジの全てがミサトを追い詰める。まだ女の子ならよかった。あの子が自分と同じ女なら、まだ私はこの焦燥を思い切れていたかもしれない。けれど、シンジは男で、どれほど体が弱かろうが、どれほど気質がそぐわなかろうが、この碇の家の総領息子だ。…本人の思いがどうであれ。……周囲の思惑がどうであれ。
この、どうしようもない黒い思い。
あの子にとっての成長が、私にとっての老いであるという焦燥。
シンジはこれから全てを手に入れる。私が一つ一つを失っていくというのに。私の手にあったものを、若いあの子が奪うのだ。
これは嫉妬だ。
若さを失いつつある私の。
もう、後戻りもやり直すこともできない、私の。
あの子の無垢さを、純粋さを、優しさを、
あの子の何もかもを破壊してしまいたくなる ──
ただ二人の姉弟だというのに…
姉弟 ──
十五も年の離れた、遅すぎた誕生…
ミサトが十四の時に、母はシンジを産み、そして僅か3年後に死んだ。そして、それ以来、ミサトはシンジの『母』になった。
きり、とミサトの歯が噛み締められる。結婚の早いこの時代、十五も年の離れた弟は、彼女の子供と云っても充分に通じるだろう。まして、ミサトとシンジは姉と弟と云うよりは、母と子のように暮らして来たのだから。子供を産んだ事もないミサトが、シンジを。
この世にたった二人の姉弟でしょう、私達。
私が育てて来たのだもの、私のものよ。
だから、ねぇ、
私の犠牲と憎しみをあがなってくれるわよねぇ…?
「シンちゃんは、いい子だものねぇ」
鏡の中で、青白い頬のミサトの、血のように赤い紅が擦れて滲んだ唇が、ひきつったわらいの形に歪んでいた。
■■■
うつうつとしながら、しかし、何度も目を擦り、シンジはひたすら睡魔を遠ざけようとする。
しがみついた体が、その腕が、柔らかく抱き締めてくれるほどに強くなるそれに、まだシンジは身を任せてしまいたくなかった。意識を手放した途端、この温もりが何処かにいってしまうような恐れ。ここにいると云ってくれたカヲルの言葉を疑うのではなく、それほどにシンジの傷が深いと云う事だ。
『ここにいるよ』
宥めるように背中を叩く手の感触。
『大丈夫、ここにいるよ ── 』
寄せられた眉のその間に、カヲルは口づけを落す。何度も繰り返し、そこに柔らかく触れる事で、その懊悩を溶かそうとでもいうかのように。
「帰らないで」
「カヲル君」
「ここにいて」
無意識に呟かれるシンジの言葉に、カヲルは何度も手で、唇で、囁きで答える。
『帰らないよ』
『シンジ君』
『ここにいるよ』
まるで手のひらで傷を癒すように、カヲルは幾らでも、シンジの望むまま、それ以上にシンジを撫でる。回された手に込められた力に、シンジは縋るように身を任せる。時折重なる唇に、シンジはむしろ自分から唇を開いていた。
それはシンジを慰撫するためにこれまでも何度もくり返された抱擁。
眠りを厭うようにカヲルを捲き絞めるシンジの細い腕に、口づけてなお寄せられたままの眉に、カヲルは白い指でシンジの柔らかな黒い髪をかき上げた。微かに残る湿り気が指に髪を絡ませる。髪の生え際を唇で辿り、白い手がシンジの頬や背を飽きる事無く何度も往復した。
ようやくシンジが眠りに引き込まれた頃には、月はすっかり傾いていた。
微かに焦燥を残した表情のまま眠るシンジを深く腕に抱え込みながら、カヲルは窓の外を見ている。
いや、正確には、窓の外の彼女を。
彼女は窓の外から、カヲルを見ている。
ひっそりと宙に浮かぶその姿は、まるで月の現し身のように、淡く満月の光を跳ね返す。まとった薄い衣装すら微動だにしない。
『…やあ、レイ』
カヲルはいっそ場違いな程の笑みを零した。
手の中のシンジに先ほどまで向けられていた痛まし気な瞳は、もう微塵も見られない。むしろ、酷く上機嫌だ。
『まだなの?』
細く小さなレイの声が、夜明け前の硬質な空気を震わせて、やけにはっきりと響いた。
くすりと、カヲルは笑い、まるで歌うように囁いた。
『まだだよ。まだ、時は満ちない』
『…そう…』
そのわずかなひと声に秘められた、落胆にも似た色を感じ取れるのは、恐らくカヲルだけだろう。レイの月のような面輪には、それと察することができるほどの表情すら浮かんではいない。だが、カヲルはレイを宥めるように言葉を続ける。
『待てないのかい? ── 僕はむしろ、時の満ちるまでをも存分に楽しみたいと思うけれど?』
『…そうね』
レイが、うっすらと笑った。
それまでの表情のなさゆえに、逆にその薄い笑みが月光に際立つ。
そのまま、その体が空中を滑るように近づき、シンジを抱き込むカヲルの隣へと降り立った。しかし、その手が触れたのはシンジの頬だ。涙の跡の残る頬に、うっとりと微笑み、そっと口づける。涙をすくい取るように、唇が目尻に触れた。
『…レイ…、この子は僕のものだと云っただろう?』
カヲルの抗議の声は、しかし笑いを含んでいた。咎めていると云うよりは、何処か煽ってでもいるかのように。レイは顔を上げると、シンジの体越しに、猫のように伸びをしてカヲルに唇を重ねた。交わされる口づけの合間に微かに舌の絡まる湿った音がする。キスはかすかに涙の味がした。
『楽しみましょう』
レイの艶のある言葉に、カヲルは目線で頷いた。
『彼自身が心の全てで望まなければ意味がない。僕らは待てばいいのさ、その時を』
カヲルは微笑む。
『…それに ── そう長くは待たせないと思うよ、レイ』
カヲルの手の中で眠るシンジに、二人の視線が落とされる。泣き寝入りした子供のようにあどけない顔に、一抹の苦悩が潜み、暗がりに淡く陰影を結ぶその表情は、どこか扇情的ですらある。
何時の間にかレイの姿は消えていた。
カヲルは、手の中で全てを預けて眠るシンジを満足げに抱き締める。
月が沈むまで、まだ暫く時間があった。
■■■
シンジが目覚めた時、身じろぎした体から、上掛けが滑り落ちた。身を起こすと、昨夜風呂上がりに着たままの服で寝ていたことに気がついた。
眠りに落ちる前の記憶は判然とせず、ぼんやりと自分の部屋を見回した。白々と朝の光に照らされ、物音のしない殺風景な部屋。窓の外遠くで鳥の声がしていた。
「…る、くん…?」
掠れた声がわずかに唇からもれる。
求める人の姿はすでになく、シンジは上掛けに顔を埋める。
…微かに、甘いような ── 花のような ── 香りが鼻孔をくすぐり、シンジはその朝陽に温められた上掛けをかき寄せる。カヲルの残り香。
昨日、月が沈むまでは側にいると言ってくれた通り、きっとカヲルは明け方近くまで、自分についていてくれたのだろう。仄かな香りは初めて出会った時のまま、シンジを穏やかになだめる。けれど。
なぜ、いつまでも一緒にいられないんだろう。
窓ガラスに映る、飛び交う小鳥達の影を見ながら、シンジはぽつりと降り出した雨のように沸いてくる感情に身動きできずにいた。
寂しい。
降り出した感情の雨粒は、やがてその勢いを増し、小雨のように、シンジの心を濡らす。
側にいて。
まるで頑是無い子供のように、シンジは静かに頬を濡らした。季節は夏というのに、心を濡らす寂しさが現実の肌寒さになって感じられた。
カヲル君。
カヲル君。
カヲル君。
側に来て、いつもいつも一緒にいて、離れないで。
寂しさで凍えそうだった。
判っている。カヲルは月のある間しか、自由に動けない。ここに来るには、月の光が必要だと、ずっと以前に教えてもらっていた。
『僕は月の支配を受けている ── だから、遠出ができるのは、月の影響がある間だけなんだ』
そう言って残念そうに微笑んだカヲル。窓の外には下弦の月が輝いていた。
『その月も、できれば満月に近い方がいい…』
そう言ったカヲルは言葉を切り ── くすりと笑った。不思議に思ってその顔を見上げたシンジに、クスクスと笑いながら言葉をつなぐ。
『…なんだか、狼男みたいだよね』
そう呟いたカヲルに、今度はシンジの方が思わず笑ったものだ。
こんな綺麗な狼男なんていないよ。
もしカヲル君が狼男でも、全然恐くないや。
そんな考えはシンジの気持ちが判ってしまうカヲルにすぐに知れたらしく、悪戯っぽく囁かれた。
『笑ってるね?…僕が恐くないの?』
寄せられた顔と顔、見交わす眼差し。
「どうしてさ、カヲル君みたいな狼男だったら、ちっとも恐くないよ」
牙をむき出し旅人や若い娘に襲い掛かる醜悪な怪物と、この、人ではないにせよ、夢のように綺麗でこんなに優しいカヲルとでは、比べるべくもない。比較しようとすること自体が滑稽に思える。
『いいのかな、そんなに安心してても? 僕だって、今にもシンジ君を襲って頭から食べてしまうかもしれないよ…?』
悪戯を思い付いたような顔のカヲルに、こちらも少しばかりの悪戯っ気をこめてやり返した。
「カヲル君が、僕を? まさかぁ」
酷いことをされたことなど一度もなく、むしろ、何か心にかかる事がある度に側にいてくれたカヲルを疑う事などできなかった。そんなこと、考えた事もなかったし、そんな必要もなかった。
『ふぅん、そんなに信用してくれてるのかい?…思うつぼだよね、疑われる前に食べちゃおうかな』
するりとのびたカヲルの手が、シンジの肩を掴んだ。
言葉と裏腹の楽し気な口調と、微笑のように眇められた赤い瞳。
もう片方の手が顎に滑り、え?、と思う矢先に。
赤い瞳が視界を埋め、息がつまった。
何?
何が起ってるの ──
唇が、カヲルの唇で塞がれていることに気付くまで、数瞬必要だった。ひくっとのどが鳴って、酸素を求めてほころびた唇の間に、何かが入ってくる。あまりの驚きに、それが何かということが判るまで、さらに数瞬…侵入して来たそれが自分の舌を絡めとってようやく、それがカヲルの舌だということを理解した。
理解した瞬間、頭に一気に血が登った。口の中をまさぐるように動くそれに、体が火に炙られるかのように熱くなる。
『ごちそうさま』
ふと気がつくと、体の上にカヲルが乗り上げていて、自分はといえば、まるで猫に押さえ込まれたねずみのように、畳の上に崩されていた。
それが「キス」だということは、幾ら子供なシンジでも判る。けれど、上から覗き込むカヲルの砂色の髪が月の光を銀に弾いていて、楽しそうな赤い眼もキラキラと輝いていて、その余りにも綺麗な光景に、言葉を失っていた。
誕生日が来れば12になる春の夜。
カヲルは狼男だったけれど、それでも恐くなどなかった。
「…恐くない、よ」
無意識にそう呟いたシンジに、艶然と笑むカヲルの赤い瞳が再び近付いて来た。
カヲルの香りのする夜具をかき抱きながら、シンジは独り、流れつづける涙を柔らかな布に落としていた。
判っている。
これはわがままだ。
カヲルにはカヲルの従わなければならない「理」があって、それは仕方のないことなのだ。
理性では、そんなことはとっくに飲み込んでいた。しかし、人間は木や石ではなく、理性だけで生きているわけでもない。ましてや、シンジのように感受性の鋭い子供では ──
「 ── 寂しいよ…カヲル君…」
言えば良かったのだろうか、あの言葉を。
そうすれば、今こんな風に、独りの寂しさに泣かずに済んだのだろうか。
あの言葉 ── カヲルに教えられた、一度しか云えない、あの… ──
けれど、シンジにはまだためらいがある。当のカヲルに云われた言葉が、うかつにそれを言わせることを留まらせているのだ。
いつまで、こんなことが続くんだろう。
その年齢には似つかわしくない深いため息をついたシンジは、閉じた目蓋の裏の闇に、絶望に似たものを見た気がした。
『泣かないで、シンジ君』
『 ── 君と初めて逢った日に、僕は君を選んだ』
『君の中には僕の一部が入ってる。君の事は全て判るんだ』
『大切な君が泣くと僕も辛い。僕自身の受けた痛みよりも…まるでこの身が裂かれるようだ』
『君と僕は同じだから』
『だから僕は君に、一度だけ…全てから自由になれるチャンスをあげる事ができる』
あの時のカヲルの赤い瞳。
それまでシンジが見たこともない厳しい表情で、カヲルがそう云ったのは、初めてミサトに嫌悪を抱いた夜だった。あの日、シンジにとって大切な何かが崩れ去った。呆然と涙するシンジを抱き締め、カヲルは何度も繰り替えし囁いた ── 君がどうしようもなく壊れそうになった時、僕が、君に、絶対的な自由をあげる、と。
しかし、そのチャンスはリスクをも合わせ持っていると、酷く辛そうに言葉を切ったカヲル。
癒すように抱き締められながらも、そのカヲルの初めての表情に、自分の方こそカヲルを慰めてあげたくなった事を覚えている。
カヲルがいう、自分が辛いよりももっと辛い事があると知ったのはその瞬間だっただろう。
けれど、今は、なによりも心が痛かった。
あの優しい手がここにない事が、それだけのことが、シンジを深く打ちのめしていた。
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今回はちくっと、カヲシン的いちゃいちゃプラス、カヲレイ的イチャイチャを目標にがんばりました(笑)
前回のミサシンの気持悪さを引き摺っていたんですが、やはりカヲシンはいいねぇ(*^^*)
そんでもってカヲレイもいいねぇ、何気にレイシンも入ってますし(笑)
とはいえ、まだまだ核心はこれから…ですね、精進します〜〜(^^;)
えー、続きを書けなくて一番心残りだったお話です。ポチポチ続きを書いているので、そろそろ載せることにしました。
今度こそ最後まで書きます。
ginto-bunko