Please, please, please, Don't let you go. 『 空 』

Written by 在原蝙蝠.



スケッチブックはどんどんたまってゆき、
ベッドの隅につぎつぎと積み上げられて行く。

けれど濾過されつくしたこの部屋のほんのわずかの埃さえ、
スケッチブックの一番上につもるようになった。

ぼくが彼と再会して、
二ヶ月が経ったころ。

面会後の検査がなくなったお蔭で、
ぼくは十一時の消灯までは彼と一緒に居られることになった。

スケッチブックを使わなくなったぼくらは、
ベッドに並んで音の出るキカイを眺めている。

ぼくの頭は彼の胸のうえ、
彼の手はぼくの胴のうえ。

「…ディエス・イレ?
そうだね、カヲル君の好みってなんかわかるな」

「……………」

「え?だって…ふふふ、
ストイックなのか、すごく型破りなのか。
どっちかが好きじゃない」

「……………」

「ああでも、この曲はぼくも、
この盤が一番好きだな。
イシュトヴァン・ケルテスの、随分古い盤なんだけれど」

「……………」

「青葉さんがMDに落として呉れたんだ。
バンド仲間のひとが、クラシックも好きなんだって」

「……………」

「…………」

音が流れている間、ぼくらは饒舌だった。
あの頃のように、呼吸も忘れるくらいまくしたてたりはしなかったし、
毎日あれを話そう、これを話そうと、
頭の中で箇条書きにもしなくなったけれど、
あのドアを開けて、いつものように少し哀しいような微笑みをたしかめて、
彼の横に腰を下ろすと、伝えたいことは幾らでもあった。
それでも結局、
いつのまにかぼくは無言になっている。
ドアを閉じれば、
伝え忘れたことばに焦れるのはわかりきっているのに、

「…………」

ふっと一枚のMDが止まるのに気がつくと、
ぼくらはまた黙り込んでいた。

「…………」

かたり、
ちいさな音がして、再生の済んだMDがスタンバイ状態になる。

「…………」

ぼくはカヲル君に気付かれないように、
そうっと目をあげる。
カヲル君はさっきから身じろぎもしない。
ひょっとしてまた眠って、しまったのかな?

「…………」

「…………」

目があう。
ぼくを見詰めているきみと。

「…………」

「…………」

たぶんぼくも、驚いてまばたきをしたと思う。
銀色の、睫毛というよりはこまかなかがやきに縁取られたきみの紅い瞳が、
照明を落としたうすやみの中、
底の方からぼんやりと発光しているように見えた。

「………」

「……………………いいよ」

長い間迷ったぼくの応えは、とてもとてもおおきく、
なんどもなんどもぼくの中にこだました。

どうしよう、俯こうとするともうぼくはきみの中に居て、
くちびる、が、

「……………」

咄嗟にかみしめた痛みと一緒にやってくる。

「……………」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

「……………」

これがキス、なのかな。

「……………」

感触は、よくわからなかった。
ただ末端の血が全部あたまのほうに駆けあがって行ってしまって、
指やひざはがくがくしてるっていうのに、
ねつがカヲル君のつめたい頬に伝わってしまうんじゃないかってくらい、
脳みその中をぐるぐるとまわってて、
目をあいているのか、閉じているのかもわからない。

「……………」

どのくらいの間だったんだろう、
体勢をずらせたカヲル君の手がぼくの首にあがってきて、
やっと少し頭が働くようになった。

躊躇うように、カヲル君のくちびるは口の回りをさまよって、
うなじの辺りに置かれていた手が、襟足にそっと入ってくる。
それにびくりと身体を動かすと、
唇は驚いたようにちょっと離れてゆくのだけれど、
はなにとまる蝶のようにおずおずとまた戻ってきて、
かわいているのに、濡れているみたいな感触が上唇をなぞって行く。

「……………」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。
………そういえばこれははじめてのキスじゃないんだ。

でもアスカとしたときとは全然ちがう。
それは呼吸ができる所為かもしれないけど、
でもたぶんそれだけじゃなくって、

「……………」

キスをされているのが、
『 ぼくだから 』
なんだろう、なって思った。

「……………」

つめたく震えるばっかりで動きやしない自分の手を必死になだめて、
前にあるカヲル君のひざに、人差し指だけやっと乗せる。

「……………」

カヲル君はちょっと動きを止めたけど、
顔の前で気配だけでほほえんで、
顎をちょっとだけ仰向かせた。

気道が狭くなったぼくは無意識に口をあけて、
…………ああでも、ほんとは無意識、とかじゃなくって…

「………ぁ」

カヲル君のが、ぼくにしかきこえない濡れた音をしてそこから這入ってくる。

「…………」

あたたかい、やわらかい感触。
だのにすごく痛いことをされでもしたように、
ぼくはこぶしをぎゅうっと握った。

「……………」

これが嬉しいのは、
カヲル君が見てるのが
『 ぼくだから 』
なんだ。

あのときのキスが苦しいだけだったのは、
『 ぼくと 』
したキスじゃなかったからなんだ。
捨て鉢な気分だったアスカが、加持さんとミサトさんのことを思い病んでて、
こころがそこになかったからだ。

カヲル君に触れられて気持がいいのは、
こころがそばに、在るから、なんだ。

「……………」

こころがそばに在れば、触れてもいい、の、かな?

「……………」

ぼくのてのひらはまだ震えている。
怖い、怖いんだよ。
だって、……だって、

「………」

そこに、カヲル君の左手が重ねられる。
ぼくはおどろいて、
…………だけどてのひらは勝手にひらいていく。
まるで水をあたえられたはなのように、
抗えない力がぼくを引き寄せて、ぼくの右腕はきみの背中に、
魔法をかけおわったきみの左手はぼくを引き寄せ、

「…………」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

こんなにも彼の体温が近い。
こんなにも彼の存在が近い。

ぼくの体温も、
ぼくの存在も彼に近くって、

……………ぼくはここにいるのかな。

触れられた場所から強く強くそうかんじる。

触れるのは怖いよ、触れられるのは怖いよ。
体温にのって、存在がわかってしまうじゃないか。

相手がそこにいないようで、
自分がそこにいないようで?

「……………」

ぼくのより、すこしだけひんやりしたカヲル君の舌は、
戯れる波のようにぼくを周って、
きっと、そのときに絡められた見えない糸の所為で、
貝のように身を引くばかりだったぼくは彼を追いかけてしまう。

「……………」

追いかけて、いつのまにかカヲル君の中に居て、
しらない森をあるきだすように、
とてもゆっくりと、おぼつかない動き、で、

「……………」

ひとの内側ってやわらかいんだな。
ちょっと力を入れたら壊してしまいそう。

「……………」

だからぼくは触れさせたくなかったのかな。
だからぼくは触れられたいと思ってるのかな。

「………………」

思いついたようにゆっくりとカヲル君の顔が離れて行って、
混ざり合った唾液が喉を滑り降りていく。

さっきまで感じていた体温の差異はもうなくて、
でもぼくもきみも、いつもとは違う体温をしている。

「……………」

目を、合わせられなくてぼくはことばをさがす。
…………きみとこの部屋で出会ったばかりのころ、
ことばばかりに頼れたことが懐かしい。

たったの三ヶ月、
飢えていたぼくはどんどん貪欲になって、
もう、ことばでも、……いつのまにかおんがくでもぼくを伝えきれなくて、

「……………」

心臓の上に押し当てられた手のひらに、
ぼくはひどく無力さをかんじる。

「……そんな、ことない、よ」

「…………」

「いつもと、おんなじだよ…」

云うと、彼は悪戯っぽく笑って、
ぼくの胸に彼の心臓を押し付けた。

重なる身体を少しずらした所為で、
カヲル君の首筋が目の前にある。

香水なんて、つけているはずがないのに、そこからふしぎなかおりがした。

シャンプーか、石鹸の匂いなのかな。
………ここに住んでいるのだったら、
ぼくと同じ支給品なんじゃないかと思うのだけれど、
やっぱり彼は特別なのかな。

「……………」

肘の辺りをまさぐっていたカヲル君が、
ふとぼくの手首をつかむ。

「………」

「そんなこと、ないよ…カヲル君こそ、
痩せたんじゃない?」

「…………」

ぼくが彼の手を取ると、
カヲル君はおどけて、ちょっと腕に力を込めてみせた。
柔らかい皮膚の下で、ぼくの指を圧迫する固い筋、

「……最近は、運動、してるもんね」

「………………」

「……………」

太陽を知らない白い膚、
ベッドの中で脆弱にみえたそれは、
伸びをするときやものをとろうとするとき、
その下に在る筋や骨の動きを透かせて、
ああ彼もぼくとおなじ仕組みをしているのだと今更のように考える。

だけどやっぱり彼のそれは、
ぼくのよりずっと長くて強くてしなやかで、
どうということのない動きにもぼくを見とれさせる。
関節がひとつも多そうなながい指は特に、

「……………」

それが何をしているのかはどうでもよくて、
ただその白い動線がなめらかなものだから、

「……………」

ボタンを外して行くしぐさはひどくぎこちなく、
ひどく手馴れて、

「……………」

一体そのどちらなのだろうと考えながら眺めていた。

「…………」

しろいゆびはぼくの胴のうえをゆっくりと滑り始める。
なんだろう、
それはなにかを恐れる、
くらやみのてさぐりのようだと思った。

「……………」

かれはなにをさがしているのだろう?

ぼくは思いをめぐらせるのだけれど、
白い指の軌跡はぼくの思考を散らしてしまって、
ちっとも考えがまとまらない。

そうしててのひらはもう一度、素肌のうえから心臓に押し当てられる。

「…………」

「そ、んなこと、
ないってば…」

こたえる、ぼくのこえは奇妙にうわずっていて、
きみはくすりと胸の上でわらう。

そしてまた、素肌の上から彼の心臓を、
ぼくのうえに重ね合わせる。

「…………ん」

奇妙な感覚に、ぼくはちいさくこえをあげた。

「………」

「重くなんて、ないよ…
カヲル君、ぼくよりほそいじゃないか」

「…………」

「うん…」

「…………」

カヲル君の心臓のおとがする。
……いつもより、早い。

ぼくの心音も、
なんど打ち消したっていつもよりずっとはやくて、
とめられなくて、

「…………」

ぼくは逃れようとする。
でもかれの、ぼくとそう変わらない体重と、
たぶんもう、ぼくよりもすこし強い筋肉がぼくをやんわりと諭す。

あの白いゆびは、
ぼくの胴をすべりおり、手首の方へ移動してしまっていて、

視界には、膚の上にくちづける彼の紅い、

「………や、めっ…」

あんまりな光景にぼくは目をつよくつぶって、
かれの身体の下で無意味にもがいた。

「…………」

彼はふいと顔をあげ、ぼくをかなしげに見詰める。
…目を閉じたままのぼくはそれを見、

「ち、ちがうよ……そ、そうじゃない、けど」

「…………」

「…………嫌なんじゃ、なくて」

「…………」

「…………」

ぼくはやっと離してもらった腕で、自分の顔をかくすようにした。
一体自分はいま、
どんな表情をしているんだろう。
考えるだけでにげだしたくなる。

「………ただ……」

「…………」

カヲル君は、しばらくぼくを見詰めていたけれど、
また目を伏せ、ぼくの胸の赤い突起を、咥えた。

「……っん」

あわてて口をふさぐ、
でももう間に合わない。

つりあげられたように背中が反って、
ぼくの口からはきいたこともないような、声が、

「……………」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

浮きあがった身体に、カヲル君はいつのまにか手を差し入れてしまって、
背中と、胸と、はさみこまれてしまったぼくはもう指先も動かない。

「……は、…っ、あ、……はぁっ」

もどかしさに焦れたぼくの呼吸は短く早くなり、
頭の中でしきりに繰り返されて、
自分の息のおとだっていうのに、
ぼくはそれにも混乱する。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

どうしていいのかわからない。
ただかんじられるのはぼくの前とうしろとで、
宥めるように繰り返されるやさしいうごき、
さっきからしきりに続きを促そうとするきみの問い。

「………っ、そ、じゃな…
だ、だから…」

引きつったこえは答えにならない。
たまらなくて背中のシャツに縋りつくと、
縫い目のない布地が指の間ですべる、さりりという音がした。

「……………………音量、あげて」

やっとことばらしい声が出たとき、
ぼくはもう半泣きだった。

力の加減をなくした手は、シャツをつかんだままこまかく震え、
元々なにをしようとしていたのかも思い出せない。

「…………」

カヲル君は、顔もあげずにリモコンを取り、
適当なボタンをおして床に、落とした。

「………………」

そしてそれが床に鈍い音を立てるより先に、狂ったように鳴り響く、音楽。

「……はあ、はあ、はあ、は、…っ、あ」

もう自分の声もきこえない音量に、
糸を切られたように彼に縋りつき、

「……………」

身体をずりあげた彼はぼくに口付けてきた。
濡らせた瞼をそのままに、
噛みつくみたいにそれにこたえる。
わけもわからずただ夢中だった。

乱暴になった手つきがベルトにかかり、
首筋から鎖骨のくぼみを目指して行くちいさな頭を抱えながら、
自分がなにをされるのかということを、
やけに冷静に理解して腰を浮かせた。

「……………カヲル君」

視界の隅でひかる透明なレンズと、
うすやみを引き裂いて鳴り響くオーケストラ。

ああ一体この曲はなんというタイトルだっただろう。

目を閉じても見えるのはまっかな瞼の裏だけで、
すこしも思い出すことはできないのだけれど、

「………………カヲル君」

ばらばらにされていく意識と感覚と呼吸とからだ、
そんなものよりもきみがなによりもだれよりも近くかんじられる。

それはかなしくくるしくせつなく、不幸で、
……………ぼくはだれよりも幸福だった。

「カヲル君、…………カヲル君、カヲル君、カヲルくん、」

ああ段々、音楽どころかあらっぽく繰り返すぼくの呼吸もきこえなくなる。

ぼくは息をしているだろうか?
ぼくは確かにここにいるだろうか?

「…………」

ああだけど、繰り返しくりかえし壊れたようにぼくを呼ぶきみがきこえる。

「………………カヲル、くん」

だからぼくはここにいるんだ。

「………………」

「カヲルくん」

ぼくらにはもうきこえないけれど、
つめたいレンズとぼくらの間に流れ続ける音楽、
嵐のように烈しく緩く迫りくる音圧と、
叩きつけられる生命に満ちたことば、

「……………」

ああぼくはここにいるんだ。

からだが動くかどうかはわからなかった、
けれどただきみを抱きしめた。

どうしよう。

ぼくはやっぱりどうすればいいのかはわからない。
でもきみはぼくを呼び、
ぼくはきみを呼んでいた。

「ん、……もう、……あ、や…っ」

…………一体、きみとぼくが出会ったのは偶然だったんだろうか、
必然だったんだろうか。

ぼくらは決して、運命輪の回し手を見ることはなく、
なぜ『 彼 』のきまぐれのように、
もういちどであうことができたのかも判らないけれど。

「……そっ………は、だめ…」

たぶんぼくが逃げ出してきたすべての現実にもすべての不幸にも、
意味合いがあったのだろうと思う。

彼の『 死 』はいまもほそい首筋にありありとその存在を主張して、
ぼくにあのときの『 逃避 』の重さ、
かれの『 命 』の重さをつきつけている。

ぼくがそこから目を外せないのは、
罪の意識ではないと思う。

その残酷に、感謝しているからだと思う。多分。

一体この傷跡が、
『 彼 』にとってはどんなに些細な気まぐれであるとしても、
ぼくにとってはこの先の現実そのものなのだから。

「カヲルくん」

運命輪を回すその手は、『 彼 』は、
たおやかな白い手をしているだろうか?
それともひみつを隠した白手袋をしているだろうか?


「カヲルくん……」


一体この傷跡が、
『 彼 』にとってはどんなに些細な気まぐれであるとしても、
ぼくにとってはこの先の現実そのものなのだから。

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