銀兎文庫::novels1
「…別人、みたいだったわねー…」
「あら、そう?」
「ってあんた、そう思わないの?」
「……案外、あれが本当のシンジ君なのかもしれないわよ。
押しが強くて大胆で、…あぶなっかしいくらい捨て身でね」
「…………やなこと思い出させるじゃない」
「第十四使徒?
ひとなんてね、守るものを知らなければ強くなんてなれないのよ。
残酷と生への衝動は、或いは比例しはしないかしら?」
「冷静なのねー。
………アスカも、レイも、その調子で行けばいいけど」
「シナプスの受信は確認されたわ」
「………どんな夢、みてるのかしらね」
「ひとは愛された記憶がなければ、
愛することはできないのよ。
自分も、他人もね」
■◆■
その翌日は、カヲル君との面会についてのレクチュアを受けた。
専門用語なんかはぼくには使われない。
ただ、入室のまえには消毒を受けること、
持ちこむものについては事前に許可をとること、
彼を刺激するようなことは云わないこと。
破った場合には彼の『 破棄 』に繋がると云われた。
そして、
「意識が完全ではないし、記憶には混乱があります。
……それから、声帯の損傷が烈しくて、
話は一切できないわ。
聞くことはできるけれど、……筆談もまだ、むりね。
起きあがるのも、あと三ヶ月はかかるそうよ」
それでもかまわない。
ぼくは、エヴァに乗るときよりも面倒な過程を幾つも抜けて、
消毒薬のにおいをさせてきみのドアを開く。
足音はしない。
しろい、ゴムぞこの靴をはかされているから。
「………カヲル君」
きみは相変わらず目を覚まさない。
それでも構わなかった。
ぼくはきみに話しかける。
「上の街、復興が始まってるんだ。
昨日出てみたんだけれど、工事で煩いくらいだよ。
…………また、みんなとあえるといいな。
カヲルくん、制服きてたよねえ?
……一緒に、通えるといいよね」
■◆■
雨?
………ううん、風だわ、かぜのおと。
地平線の向こうまで草原がつづいている、
その向こうからわたってくる風の音。
ここはどこ?
草の丈が高くてなにもみえない。
誰もいない。
だからここがどこだかわからない。
誰もいないの?
誰か返事をしてよ!!!
…………………
誰もいない、
ここはどこ?
私はどこ?
私がわからない。
ひとりはいや、
自分がどこに居るのかわからない。
ひとりはいや、
自分が居るのかどうかわからない。
誰か返事をして!!
だれか!
■◆■
水?
いえ、これは風。
地平線の彼方まで続いている草の波、
私の髪を揺らせる風のつめたさ。
ここはどこ?
誰も、いない。
私はどこにいるの?
わからない。
ここには誰もいないから。
私はここにいるの?
わからない。
ここにはだれもないから。
誰もいない。
わたしもいない。
誰もいない。
私は、要らない?
■◆■
あれ以来、ネルフの職員は減ったと思っていた。
けれどぼくの錯覚だったみたいだ。
上げ膳据え膳にあきてしまって、
ぼくはいつかのように食堂へ食事をしに行くことにしていた。
ネルフは二十四時間交代制で、いつも誰かが働いて、
いつも誰かが食事をしている。
十五分ちがうと全然違う顔ぶれがいて、
ネルフって大きな組織なんだなあ、とぼくは今更のように感心した。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
今日は青葉さんに会った。
「これからメンテでさあ」
と、青葉さんは十分でカツ丼をかきこんで去っていった。
ぼくはのんびりとランチのAを食べた。
今日はアジフライだ。
食事なんて栄養が取れればどうでもよいのだけれど、
地上があんな風になってしまっても、
世界の何処かでとんかつがあげられ、
アジが釣られていると思うとふしぎな感じがする。
ふしぎだなあ、と思ったことはカヲル君に話したくなる。
「…カヲル君、アジフライすきかな」
………つい三日まえ、カヲル君がぼくのいるときに意識を戻した。
ぼくはいつものように、傍らの椅子に座って、
彼のほそい髪を梳いてひとりごちていた。
今日聞いた検査の結果とか、
読んだ本のこととか、
もし学校が始まったらどうしようか、とか。
彼はうすい胸を上下させて眠りつづけている。
ただ計器の電子音が頷首のようで、
ぼくはそれを彼の相槌にみたてて、ぽつりぽつりと話をする。
点滴の管は、
彼の薄い皮膚にどす黒い痕を増やしてゆき、
位置をさしかえられるたびぼくは胸が痛む。
けれど、
侵食のように彼を這う、
柔らかく盛りあがった傷跡はぼくのものだ。
決して消えない、
ぼくの痕跡。
ぼくは彼の術衣を解いて、
肋骨の際を順番に撫ぜた。
砕けた骨を繋ぎ、
間に人工骨を入れたときの縫い痕。
人工骨はそれ自身で成長をして、
元の骨とつながるのだとリツコさんが教えて呉れた。
指の腹でそれを追うと、
少しずつ彼とひとつになろうとする、
まるでチョークのような白い人工骨の成長が触れるようで、
ぼくはとてもうれしかった。
ほんのちいさなつくりものさえ、
彼の一部になるのだとしたら、
「……………」
ぼくは前を合わせ、白い時計に目を走らせる。
……はやいな、あと四分。
首の縫い目に口付けて、
ぼくは彼をじっと見詰める。
…………このまぶたには、
あのときと同じように赤い瞳が隠れているんだろうか。
はじめてぼくに、好きといってくれたのと同じ目をして?
「…………それでもいいんだ」
ずっと彼に会いたいと思っていた。
会って云わないとならないと思っていた。
彼を殺したぼくは、
彼に憎まれてもあたりまえだから、
『 あいたい 』云ったこころの中には、
いっそ『 ころして 』云いたい気持もあった。
「………それでもいいんだ」
ぼくはまちがったことをした。
ぼくはまちがったことをした。
間違ったぼくなんて要らない、
ぼくなんて要らない。
もうきみは帰らない、
だからぼくなんて居なくていい。
そう思っていた。
「………それでもいいんだ」
きみが居るのだと知って、
やっと為ることが出来たから、
たったひとつの理由のためにぼくにはぼくが必要になった。
ずっと会いたいと思っていた。
会って云わないとと思っていた。
「赦して呉れなくていいんだ。
壊されてしまってもいいんだ」
ぼくはゆっくりと身をかがめ、
なにかの夢をみるきみの耳元に毎日囁く。
「………カヲル君が、好きなんだ」
ぼくなんて要らないんだ。
それだけ伝えられればそれだけでもういいんだ。
ほかにはなにもいらないから、
ほかにはなにも怖くないから。
きみに聞こえるまで云いつづけようと思った。
それだけがぼくの『 要 』だった。
「……またあしたね」
ほんの五センチまで顔を近づけ、
慌てて離してぼくは呟く。
「また、明日」
きみにこえがとどくまでは、
ぼくにはぼくが必要なんだよ。
鞄を拾ってたちあがると、
きみの赤い目がぼくを見ている。
「……」
ぼくの顔に視線を当てて、
けれどすこしも視線を振れさせないで、
ただ瞼だけをあけている。
「………」
ぼくは鞄を取り落とし、
がたん、と大きな音が立つ。
するとふっと視線が左右に揺れる。
……みえて、いるんだろうか?
視線はうごかさないと像が結べない、
ぼくは顔の前で手を振ってみた。
「…………」
カヲル君のめはちょっとだけ動いて、
盲のように一点を見ている。
「カヲルくん」
「………」
反応はない。
どうすればいいんだろう。
やっぱりぼくのことなんて覚えていないんだろうか。
「カヲル君」
「…………」
反応はない。
大事があってはいけないから、
ぼくはナースコールに手を伸ばした。
投薬されているし、
まだ外界に触れられる時期じゃないのかもしれない。
シーツの上の白いほそい腕は、百合の花茎を思わせて、
手のひらがふうっと開いたと思うと、
はなびらのように白いかおりがぼくを包んだ。
「………………?」
顎をなでる指、
這うように唇から鼻筋、額へのぼって行く手のひら。
「…………カヲルくん」
見えては、いないみたいだった。
目は開いているのだけれど、ものとしてはわかっていない。
ただ、
ぼくよりもずっと低い、植物に触れられるような体温が、
なまめく快感になって膚から全身に走った。
「…きこえ、る?」
弱々とした力が、ぼくの頭を抱え込む。
「………カヲルくん…」
すこしだけ撓んだ目元。
ぼくは、
彼が目を覚ましたら云おうと思っていたすべての言葉も
しようとおもっていたすべての所作も、
こわれものの身体という注意もなにもかもを放り出して、
力の限りに縋りついていた。
「………………」
のどは、なにものかにふさがれて息ができない。
確かに、誰のものでもない体温がした。
あのとき触れられたのと同じ体温がした。
彼の唇がほんの少し動く。
そのこえはぼくにはとどかないけれど、
ぼくは泣きながらつぶやいた。
『 おかえり 』
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