3

 風は家の側に立つ樹の梢を揺らし、葉擦れの音が遠い潮騒のようだ。
 穏やかで平凡で、それゆえに美しいこの日常。

 でも、世界は一度壊れた。
 全ての命が形を亡くし、大きな一つの海原へと還元された。サード・インパクト、と呼ばれるその現象は、世界をもう一度卵に戻してしまった。人と人の間の距離は失われ全ての人が一つになり、同時に時間も無意味となって、そしてそのまま母親の胎内の中で眠る胎児のように、互いに混じりあって永遠に微睡むはずだった。


 …どこかでそうなるのもいいと思ったことは否めない。
 敵も味方もなく、他人との境界もなくなって、拒絶も喪失もなく。
 けれど、補完へと至る長い夢の中で、僕は何故か気付いてしまった。
 そこには、君はいないのだと。

 何故?
『補完されるのは、第十八使徒である人間だけだから』
 君達は ―― カヲル君や綾波はどうなるの?
『レイはリリスだ。彼女は、君達の補完の母体に。』
 では、君は?
 カヲル君は?
『リリンが補完されれば、僕は役割を終える。』
 …どういう、意味?
『第十六使徒までと同じ。淘汰されるのさ』

 使徒だから。
 人ではないから。
 人ではないものたちは、人の見る夢には混じれない。

 それでは使徒って何?
 補完のための単なる道具のようなもの?

「…だったら!補完なんて嫌だ。
 君がいないなら、綾波がいないなら、僕は皆と一つになったとは思えない」

 僕にとっての綾波も、僕にとってのカヲル君も。
 二人とも、大事な存在。

『では、補完を拒否して現実に戻るかい? これまで通り、自分の心と他人の心とは境界線があって、理解しあうことはできなくなっても?』
 それでもいい、また君達を失うより、ずっといい。
 僕は一度君達二人を失った。それで十分、もう二度と嫌だ。
『ああ…でも、僕らはそこには存在できないんだ』
 どうして…!?
『云っただろう、僕らは淘汰されると』

 ―― ねえ、カヲル君。
 何故、微笑うの?

『さあ、選んで、シンジ君。
 補完か現実か、どちらでも構わない、君が決めることだよ』

 何故微笑うんだろう、彼は。
 もう二度と逢えなくなるのに、まるでそれが正しい答えだとでもいうふうに。
 それが何故か無性に腹が立った。
 それに、僕が決めることっていうのは、僕が人間の未来を選ぶってこと?
 そんなの、神様が決めればいい。
 僕は神様になんかなりたくない。
「どちらかなんて選べない、世界も君も、両方欲しい」
『…それは…できないよ』
 だから!何故笑うんだよ?
 そんなふうに勝手に決めてしまって、
 淘汰されるのだと決めてしまって、
 僕の意見を聞くよりも先に“これで正解だ”なんて決めてしまって!
「そんなの嫌だ!
 どっちかだけなんて選べない!僕にとっては君達だって現実なのに!!」
 勝手に決めてしまってからそんな風に微笑うなんて狡いよ!
「君達が ―― 君がいない世界なんて僕はいらない!」
 僕が選びたいのは未来の形じゃなくて君達なんだよ!

『 ―― 困ったね…』

 いいよ、困ればいい。
 君が笑いながら消えてしまうよりずっといい。
 こんなのは我がままだって判ってる、けれど、
 望みは何、と聞かれるのなら、
 僕は君を願う。
 例えそれが君を困らせることだとしても、
 例えそれが道に外れたことだとしても、
 もう間違えたくないんだ。

『僕達が生き残ると云うことは、過剰なエネルギーを抱え込んでしまうことだから、世界の歪みは避けられないだろう。
 いつか世界はバランスを失って壊れてしまうかもしれない。
 そうなれば、今度は人が滅びてしまう。
 ―― それでも僕達を望むのかい?』

 もっと困ってよ。
 それで壊れるなら壊れてしまえばいい。
 僕が駄々をこねてると思うならそれでもいい。
 一度は君を殺したのにって軽蔑されても構わない。
 君がそんなふうにさえ微笑わないでくれるのなら。
 君はあの時、自分を捨てて、僕を生かした。
 でも、同時に、僕を殺したのだから。

「…それがいけないことなら、何故僕に選ばせるんだよ?
 ―― 僕に選べと云うのなら、僕が好きに決めたっていいはずじゃないか」
『代償を伴うかもしれないよ。 ―― それでも?』
「 ―― もう一度、同じ答えを聞きたいの?」

 僕の初めての我がままを、 ―― それが叶うなら最初で最期になるはずの我がままを ―― 十七番目の天使は受け入れた。
 根負けしたというように苦笑しながら。




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