銀兎文庫::brave
それでもお兄ちゃんスイッチがオンになってしまった美鶴は、甘い香りを振りまきながら亘から離れようとしない。
「何か他に欲しいものあるか?」
(欲しいもの)
「ある…」
思わず素直に口から出ていた。
「ん? 何が欲しいんだ? すぐ持ってきてやるから」
いつもより何倍も優しい口調で囁く美鶴の頬は、甘そうな白い桃のようにしかみえない。
「…水蜜桃…」
ぽつりと呟かれた言葉でも、桃が好きな彼にはそれが品種の名前だというのはすぐに判ったのだろう、今度は亘の手からグラスを取り上げるとテーブルに置き、そのまま皿に戻した亘の分の桃を手に取ろうとした。
「ちが…それじゃ、なくて」
「? 桃たべたいんだろ?」
たった今自分で水蜜桃が欲しいといったのに違うという亘に、戸惑った声が返される。美鶴は亘の頭の中でのヨコシマな連想を知らないから当たり前だが。
「その桃じゃ、なくて」
僕が欲しいのは…といいかけたところに、美鶴の声がかぶさった。
「剥くのが待てないなら、食べかけだけど、俺が剥いたのでもいいか?」
(美鶴の食べかけ…)
とっくに目に焼き付いている桃にかぶりつく美鶴の姿がフラッシュバックして、頭に再び血が上った。普段美鶴は亘を天然だといって笑う。けれど狙わずにとった言動が誰かのツボにすっぽり入る事を天然だといっていいなら、美鶴だって十分に天然だ。しかも、普段はあんなに頭が良くて察しがいいのに、変なところだけ天然だから質が悪い。
(…もーだめ)
白くて、でもほんのりピンク色で、瑞々しくって、…きっと、何よりもあまい蜜を含んでる。
その果実は簡単に手に届くようなものじゃなかったし、亘の一方的な気持ちだけで手に入るものでもなかった。一度は完全に失ったと思ったくらいだった。けれど、女神様の思し召しか、再会を果たした。
以来、どうすればずっと一緒に居てもらえるか、どうしたら美鶴にも好きになってもらえるかばかりを考えていて、頭の中で何度もシュミレーションを繰り返したりしてみた。最後まで一人でいいと呟いた美鶴がゆっくりとでもいいから心を変えてくれるようにと、いつもそう願いながら接してきた。
でも、もう限界。
目の前の美鶴には、箱にあったように「お早めにお召し上がりください」と添えられているようにしか思えない。
いつのまにか亘の「好き」は膨れ上がって、亘という入れ物から溢れて、それでもなお止まらずに湧き上がってくる。
これまで一段一段確かめながら上ってきた階段がいきなり高速エスカレーターに変化したかのように、体の中のどこか判らないところから、めちゃくちゃに暴れだす何か。
(ええい!)
僕は見習いだけど、勇者だったんだから!
「みっ、美鶴!」
それまでぼおっとしてみえたであろう自分がいきなりがばっと両肩をつかんだせいで、美鶴はえらく驚いた顔になった。
「──美鶴の、ちょうだい」
「…はぁ?」
(ああもうっ、きょとんとしないでよ!可愛いから!!)
「美鶴を、全部、ください!」
そのまま感極まって、思い切りぎゅうっと抱きしめた──これまで指の跡がつかないようにと、できるだけそおっと触ってきたのに──けれどもう、これまで頭で考えすぎたせいで答えが余計にこんがらがってしまってたし、もっと美鶴に近づきたい触りたいって衝動で体の方が一杯一杯になってて、知恵熱が出そうにヒートした頭では、理性のブレーキを引く事ができなくなってしまっていた。
「わ、わた…くるし…」
どんどんと美鶴の手が背中を叩いているのに気がついて、はっと我に返った。僕より背は高いけれど細い体を力一杯抱きしめてしまって、腕の中の美鶴が苦しがっていた。でも抱きしめた腕を解くと全部台無しにしてしまいそうで、怖くて解くにほどけない。
「お前っ、い、息、できないだろ!」
さすがに本気で苦しそうにそう怒られて、慌てて腕から少し力を抜く。緩んだ腕の中で美鶴は必死に酸素を取り入れていた。その姿はいつもの余裕たっぷりなクールな美鶴じゃなくて少し頼りなげに見え、上気した頬が匂い立つような色っぽさだ。
「み、みつる…」
食べちゃいたい。全部まるごと。
頭の中をぐるぐるとそんな事ばかりが回ってて、今日勉強したことなんて美鶴の可愛さに蹴り飛ばされて、全部頭から追い出されてしまった。
ところが。
「何考えてんだよ!お前!」
美鶴は呼吸が落ち着くと、いきなり怒鳴りだした。でも目が潤んだままでちっとも迫力がない。というか、むしろ色っぽくてたまらなかった。見ているだけで、どうも下腹あたりがムズムズと落ち着かない気分になってくる。正直、こんな風に落ち着かなくて切羽詰まったような気分になるのは美鶴だけだ。
根が理屈で考える亘だったが、自分の体に起きている変化を幼いなりの知識にまだ結びつけて考えられないまま、体の方だけ先に答えを見つけてしまってる状態だった。けれど体は体の方でまだ大人になりきっていないせいで、頭で理解できるほど具体的な答えを出してくれるには至らない。それだけに亘はぐるぐると混乱していた。だから、頭に浮かんだ単語をストレートにそのまま叫び返してしまった。
「だって!美鶴が美味しそうだからっ!」
「──はぁ!?」
「いい匂いだし!」
「なん…なんだよそれ、俺のせいかよ!?」
「美鶴がエロ可愛いのが悪いんでしょ!!」
美鶴にすれば、反応が鈍くぼうっとしてるから本気で心配したのに、急に絞め殺されそうな勢いで抱きしめてきたかと思えば、よくわからない理屈をまくしたててくる。おまけに、目が据わってる。こんな熱中症の症状なんか聞いた事もない。亘の方こそ何かのスイッチが入ってしまったようにしか見えなかった。
そんな亘を見た事がなかった美鶴はうっすら上気させた顔に困惑を薄くにじませて、唇が少し開いたままになっている。いつもなら余裕たっぷりに見える美鶴のそんな顔を間近で見て、頭がどうこう判断を下す前に、体が勝手に動いていた。
「──美鶴ぅ!!」
きりきりに巻き上がっている亘が、どん!と美鶴に抱きつく。不意打ちに美鶴の体ごと二人で後ろにひっくり返るはめになり、畳の上にどさりと崩れた。
「ってぇ…」
ぐるりと視界がひっくり返って、美鶴は衝撃に呻いた。畳のおかげで強く打ち付けたわけではないが、二人分の体重を受け止める事になった背中が辛い。
それにしても何なんだ今日の亘は!と、覆い被さる相手を睨みつけてやろうと視線を上げた。
──どきっとした。
亘が、見た事もない程強い瞳で美鶴を見つめていた。
いつもいつも美鶴に懐いてくる亘を、自分より少し小柄でもあるせいか、どこか子犬がじゃれてくるような気分でいた。美鶴の些細な一言に一喜一憂する豊かな表情もその感覚を助長していたし、何よりも亘は、それなりに辛い経験を経たというのに、自分とは違って無邪気さを失っていなかったから。
けれど、今美鶴の上で逆光の中、大きな目を見開いている亘の顔は、あどけない子犬のそれとは違ってどこか強く撓められているものを感じさせる。
まるで、犬の子供だと思っていたのが、狼の子供だったみたいに。
「みつる」
あの日幻界で自分がそうしたように、亘がそっと頬を撫でた。その手のひらの意外な大きさに思わずぴくっと反応した美鶴に亘が目を細める。そんな表情がひどく大人びて見え、美鶴が知っている普段のへたれな亘とは別人のようだ。それは。
幻界で必死に美鶴を追いかけてきた勇者の顔だった。
そのまま、ゆっくりと顔が近づいてきたかと思うと、亘の唇が熱くなっている美鶴の頬に触れた。ちゅ、と軽い音がして、その後でかぷりと甘噛みされる。その感触に嫌悪感ではないもので、ぞくっと美鶴の背筋が泡立った。体から力を奪うその感覚に驚くより先に戸惑っているうちに、そのまま何度かかぷかぷと甘噛みされ、美鶴の頬は亘のすい液で濡れてしまう。
そして次第に位置をずらしていた亘のそれが、唇の端に辿り着いた。
「あま」
果汁の味が残っていたのだろう、亘は美鶴の唇の端っこをぺろぺろ舐めてきた。
あまりの予想外の事態に珍しく固まっていた美鶴だが、亘の『全部ください』の意味を理解し始めていた。
亘が? 自分を?
まだ完全に信じられないが押さえ込まれたこの体制も、今の亘のやってることも、…つまり、そういう意味なんだろうか?
「ちょ、わた…」
名を呼びかけたそのとき。
かち、と軽く前歯がかすって、その後に下唇をかぷりとやられた。キスといっていいような接触に思わず顔が熱くなる。幼い頃から大人の間をたらい回しにされていたせいで耳年増な美鶴は、本気で亘が自分と“そういうこと”をしようとしているのだと確信して慌てた。
なかば呆然となっていたせいで抵抗らしい抵抗も忘れていたけれど、なし崩しにしていいことと悪い事がある。そして、母親の不倫が原因で悲劇を味わった美鶴にとって、こういうことはなし崩しにしておける事ではなかった。
「お…い、亘ってばっ、ちょっと待てよ」
妙に力のでない手で上に乗っかった体をなんとか押し返すと、亘が少し眉を寄せた沈んだ顔で囁いてくる。
「──嫌なの、美鶴?」
「あ…」
そうしていると怒られた子犬にしか見えないはずなのに、どうしてか剣呑な雰囲気が漂っていて、美鶴は言葉に詰まった。こんな風に正面から、嫌か、と問われると…困る。嫌悪感を感じているのではなく、急な展開についていけなくて戸惑ってる方が正解だからだ。
嫌悪ではなく、戸惑いと──底の底にある、かすかな恐怖。
他人に触られるのは嫌だけれど、亘に触れられるのは嫌じゃない。安心できる。けれど、拭えない記憶がちくりと釘を刺すのも事実で。
はっきりと否定しなかった事で、亘は嫌ではないと判断したのか、
「好き、みつる」
と囁いた。
幻界で最後に見たあの顔と声で。
これまではっきりと考えた事はないけれど、美鶴はそもそも簡単に人を好きになる事ができないタイプだ。それは、8歳の時の事件の後の周囲の手のひらを返したような豹変ぶりに起因している。
友達だと思っていた数人は離れていき、興味本位の視線や無責任な噂話は登下校の時間はおろか休み時間や授業中でさえ美鶴を苛んだ。大人はもっと酷くて、母親の親戚たちは美鶴を引き取る事を拒絶し、父親の親戚たちは世間に言い訳が立つ程度に時間を過ごしたら投げ出し、挙げ句に一番年の若い叔母に押し付けた。その叔母も、あまりに若すぎて心に傷を負った美鶴を扱いきれず、本人もぼろぼろになってしまった。
学校の教師も美鶴を扱いかねていたし、大人たちの視線や噂話は子供よりもあからさまだったし、ワイドショーのレポーターと名乗る複数の人物はストーカーのように美鶴や関係者を追い回した。
父親が生きていれば、世間の非難は事件を起こした本人に集中して、まだほんの子供だった美鶴は同情の対象になっただろう。しかし、この最大の悲劇の中で最も最悪だったのは、父親が最後に自殺したせいで、罵るべき対象が永遠に失われてしまったことだったかもしれなかった。
行き場を失った怒りや嫌悪は、形を歪めて、生き残った美鶴に振り向けられてしまったからだ。
──まるで、美鶴を側に置いておけば、そこから人殺しという病原菌の汚染と腐敗が広がるとでもいうように。
事件前までは、美鶴はサッカーに夢中で妹を可愛がる、平凡な毎日を当たり前に過ごしていた、ごく普通の子供だった。しかし、家族を一度に失い激変した環境と周囲の人々のエゴという棘に、美鶴の持っていた性質の柔らかな部分は容赦なく削り落とされて行った。
大人にしろ子供にしろ、人間なんてみんな下らない生き物だと美鶴が断を下すまでに時間はかからなかった。
もちろん、アヤは昔も今も大切な妹だから最初から例外だ。二人を引き取って面倒を見てくれる叔母も大切な人だから例外。クラスの宮原は落ち着いた性格だからたまたま気があったけれど、それ以外となると亘の幼なじみの小村とくらいしか自分からは会話をしないのが常だ。
その中でも亘は例外中の例外。肉親以外で美鶴が本当に心を動かされるのは亘だけだった。幻界での出来事を共有できる唯一の人間で、そして恐らく、美鶴の汚れた部分を一番よく判っていながらそれでも普通に接してくれる人間でもある。
人間なんて下らないと断じた美鶴だったけれど、どこかで美鶴自身が、人殺しの子供という新しい自分の負の属性を無感動に認めていた部分もあった。
美鶴が父親の美都明にとてもよく似ていたせいもあっただろう。お前は父親にそっくりだ。親戚の中には、そういって美鶴を詰る者もいた。いっそきれいさっぱり殺されておけば歪みはいつか風化しただろうに、なまじっか美鶴だけが生き残ったせいで周囲は事件を過去のものにできず、いつまでも歪みが生まれてしまうのだろう。そんなある種の諦念さえ、美鶴のなかに生まれていた。
周囲への否定と同時に自己否定も根付いた美鶴は、いつのまにか彼自身をも歪め、幻界での彼はむしろ彼自身さえコントロールできない衝動に突き動かされていた。そこにいるだけで周囲の誰もを微笑ませた、まだ3才の無垢な妹。存在を許されるべきなのはアヤだった。アヤさえ取り戻せたなら、引き換えに全てを──自分自身さえも──壊れて失われても構わないと思い詰める程に。
そんな歪みに飲み込まれた自分を、なんども呼び戻そうとしてくれたのが亘だった。
亘は──ワタルは、ただひたすらにミツルを望んでくれたのだ。
一緒に帰ろう、サッカーやって、中学も──
あまりに平凡で、それゆえに愛しくてかけがえのない日常を共に送ろうと語る声は、美鶴の渇いてひび割れた心の隙間を満たした。だからもう、一人でいいと思った。十分だった。自分の願いのためにどれだけの命を奪ったか…犯した罪を帳消しになどできないのだから、これ以上を望むのは贅沢だ。せめてワタルだけは望みを叶えればいいと。
幻界で最後に聞いた「行かないで!ミツル!」と叫んだワタルの声は、耳の奥で常に美鶴を呼んでいた。
あんなにも誰かに全身全霊で自分自身を求められたことはなかったのだ。
お人好しでへたれだけど、ほんとうは、誰よりも強かった見習い勇者。
囁かれた声音は、耳の奥で美鶴を呼ぶ声と同じ色をしていて、胸の奥を切なさと甘さが満たしていく。嫌悪感なんて全く感じていないどころか、今自分を抱くのがあの腕と同じ腕だと思うと、美鶴は不覚にも幸福感としかいいようのないものを感じてしまったからだ。
おまけに、好き、とはっきり言葉にされたせいで、なし崩しともいえなくなってしまった。
(ああもう、捨て身のこいつにはかなわない。)
“ふざけんな!絶対つれて帰るからな!”
涙声で怒鳴られたその言葉が、どれほど嬉しかったか…まだ亘に告げた事はなかったけれど。
「俺も、好きだ」
ぱあぁっと表情が明るくなり再び覆い被さってくる亘に、現金な奴だな、と美鶴は苦笑気味に呟いた。
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