boys of summer 空蝉の夏 - ( 3 )

宇宙船に乗って逃げ出そう。
夏だけの世界へ。
君となら、僕はどこへでも行ける。


boys of summer 空蝉の夏


 明るい日差しが差し込んでる。
 レースのカーテンがカヲル君の白い肌に模様を描いて、とてもキレイだ。
 僕達は吐息で言葉を交わしながら、お互いの肌を探り合う。感じる所を見つける度に、新しい方法を見つける度に、僕らはこの遊びにはまっていく。触って、触られて、受け止めあって。色の白いカヲル君の、右足の付け根には小さなほくろがあって、僕はいつもそこにキスをする。カヲル君は、僕の左耳の下のくぼみに。僕達にとって互いの体は遊びの宝庫で、また、発見の宝庫で…指も唇も舌も、全てが僕らだけの遊びをするために作られたように互いの肌に馴染んでいた。
「 ―― ふ、」
「っ、ん…、」
 何度か達して気だるく疲れた体を狭いベッドに横たわらせながら、僕らはまるで交尾する虫達のように抱き合った。
 僕の体をゆっくりと何度も撫でていたカヲル君の手が、ふと止まる。
「…どうしたの、…なんだか元気がないね?」
 僕の気持ちなんて、とっくにカヲル君にはお見通しなんだろう。
 意地を張るつもりもなく、僕はカヲル君の首に腕を回しながら、やるせなく呟いた。
「夏休みが終わっちゃうね…」
 カレンダーはすでに8月の31日。明日からは、学校が始まる。こんな風に毎日触れ合って過ごすという訳にはいかない。
「学校なんて行きたくない」
 我ながら酷く拗ねた口調になってしまうのを止められずに、カヲル君にしがみつく。
「ずっと夏休みのままならいいのに!」
 できない相談だということは判ってる。時間は常に流れていくもので、それを止めることができる人なんていやしない。けれど、それが判っていてもなお、これほどぴったりと合わさる体を引き離してしまうことは、僕には酷く辛いことに思えた。学校は一緒だし、家に帰ればまたこうやって抱き合うことができることも判っているのに。
「シンジ君 ―― 」
 しがみつく僕の顎をすくった手に誘われ、重なった唇の隙間から舌を絡めて。
「…僕だって、無茶なこと言ってることくらい判ってるけど ―― 」
 再び生まれた小さな熱を、互いにやりとりしながら大きくしていく。はぁっ、と吐息が熱を孕む。躊躇うことなく感じるところに滑り混む指先に身を任せながら、僕は譫言のように言葉を続けた。
「僕…は、もう ―― カヲル君だけ、いてくれたら ―― 」
 カヲル君さえ側にいてくれたら、それだけでいいのに。夏が終わらなければいいのに ―― もう1日だって離れたくないのに ――
 僕はカヲル君の上に身を乗り出して、熱い舌を貪った。夏休み最後の日はまだ昼下がりで、カヲル君が帰ってしまうまでにはまだ時間がある。明日からの離ればなれの時間を今から取り戻そうとするかの様に、僕はいつもに増して貪欲にカヲル君を欲しがった。


「僕が好き?」
 夏の長い日も、午後7時前には赤く夕焼けに変わっている。
 頬をオレンジ色に染めながら、ガラス戸のところでカヲル君が振り返る。タオルケットを羽織っただけの恰好で見送ろうとしていた僕は、カヲル君の言葉に何の疑問も持たずに頷いた。
「好きだよ」
「誰よりも?」
「うん。カヲル君が、一番好き」
 鼻がツンとして、僕は泣きそうになる。なんだかもうこれきり会えないような気がして。明日また学校に行けば会えるのに、名残惜しさに僕は切なくてたまらなかった。
「大丈夫、またすぐに会えるから。」
 僕を宥めるカヲル君の言葉に、さらに眼が熱くなる。
「ねえ、僕達の秘密の宇宙船、覚えてる?」
 抱きしめられたまま、僕は頷いた。飴色の宇宙船 ―― 僕らの隠れ家に隠した蝉の抜け殻。
「あれに乗って、1年中夏の星に行きたい。」
「うん。一緒に行こう、夏だけの星を探して、そこで暮らすんだ。約束できる?」
「絶対行くよ。約束する。ずっと一緒にいられるんなら、」
 僕はもう他に何もいらない。
「忘れないで。…またね、シンジ君」
 夕日に染まったカヲル君の眼が深紅に煌めいた。そっと眼の上に手が置かれ、撫でるようにされて僕は眼を閉じる。次に眼を開けたときにはカヲル君はいない。けれど、帰っていく姿を見てしまえばまた引き留めようとしてしまうだろうことは、僕にも判ってた。必死に眼を閉じ、遠くなる足音に耳を澄ましながら、 ―― 明日からまた日常が始まる、 ―― 体に残る熱を抱え込んだ。




■■■




 9月になって初めの日は、まだ夏休みの延長のように、中途半端な感じがする。たった1日変わったくらいで日差しが急に和らぐはずもなく、まだまだ夏の内のような暑さで、夏休みが9月の初めも含まれないことの方が不思議なくらいだ。いっそ、8月32日とか8月40日とか、気温が高い内は休みにしてしまえばいいのに。
 授業が始まるのは明後日から。今日は始業式と学級会だけで、午前中で帰れる。
 学校へと急ぎながら、僕は既にその後のことに心を占められていた。学校でカヲル君に会ったら、また僕の家に誘おう。眼が覚めてから僕の頭の中はそればかりだ。


 駆け込んだ教室には、がっかりすることに、カヲル君の姿はなかった。
「おぅ、センセ! なんや、今年は随分焼けてるなぁ!」
 僕に気づいたトウジが2年経っても抜けない関西弁で話しかけてくる。
「おはよう、トウジ。 ―― あ、おはよう、ケンスケ」
 かちゃかちゃとノートパソコンのキーを打つケンスケに声を掛けると、メガネを押し上げながらケンスケが挨拶を返してくる。
「そんだけ日に焼けとるとこ見ると、今年はセンセも夏休みは遊んだみたいやなぁ。家族で海でも行けたんか?」
 行ってたのかと聞かずに「行けたのか」と聞くトウジは、親が不在がちな僕の家の事情をよく知っていた。
「…そうじゃないんだけど ―― 夏休み中、結構外に行ったりしてたから。」
「へぇ、珍しいね、シンジが外で遊ぶなんて」
「おう!それでこそ夏休みや!」
 ばらばらな感想を聞き流して、中身のほとんど入って無い鞄を机の横に掛けながら、教室を見回す。カヲル君はまだ来ない。
「どうしたんだよ、シンジ?」
 キーを打つ手を止めて、ケンスケが聞いてくる。
「あ、うん…何でもないんだけど…カヲル君まだかなって」
「カヲル君? ―― って、渚のことぉ?」
「はぁ? なんや、えらい気安いなぁ。」
 僕の言葉はえらく二人を驚かせたらしく、素っ頓狂な声に、僕は二人に判らないくらいちょっとだけ眉を顰めた。二人は知らないけど、僕達は夏休みの間、ほとんど毎日一緒に遊んでいたのだ。気安くても当たり前だと思ったけれど、説明する気にはなれなかった。僕らだけの秘密を誰にも話す気にはなれない。
 席についてぼんやりとしてるうちに、予鈴がなって校舎の外に行く時間になった。まだカヲル君は来ない。どうしたんだろう、遅刻なんてカヲル君らしくもない…。空いたままの席を見つめていると二人に声を掛けられて、始業式に遅れるわけにも行かずに席を立つ。たぶん、後からすぐに校庭に来るだろうと思い直し、移動するために廊下に出ると、なんだかやけにざわついていた。女の子達の悲鳴っぽい声が小さく聞こえる。えー、とかうそぉ、とか。どうせ、また何か新しい噂話だろうけど。

 9月になっても日差しはまだ十分に夏で、太陽の下で行われる始業式は結構うざったい。暑いし、風もないし、先生の話も長いだろうし。背の順番に並びながら、僕は後ろを振り返る。カヲル君は僕よりも背が高く、5人ほど後ろだ。あの目立つカヲル君がいれば、すぐに判る。ちらっとでも顔を見れればそれで良かったんだけど。
  ―― やっぱり、まだ来てない…
 どうしたんだろう。昨日は、そういえば、カヲル君も少し元気がなかったような気がする。夏風邪でもひいたのかな。
 後ろばかり振り返っていると、先生に怒られてしまい、仕方なしに僕は前を向いた。

 教頭先生の話が終わるまでに、何分かかっただろう。
 気温はたぶん34度くらいで、頭上に広がる青空には、まだまだ真っ白な積乱雲が幅を効かせている。
 教頭先生の次には校長先生の話だ。僕はうんざりしながら俯いていた。

「長い夏休みが終わって、今日から新学期ですが、皆さんに悲しいおしらせをしなければいけません。」

 校長先生の神妙な口調が響く。そういえば、一昨年も校長先生がこんな話をしたことがあった。僕は俯いたまま記憶が蘇るに任せる。確か、その時の2年の子が病気で死んだという話だったように思う。1年の終わりからずっと入院していたけれど、とうとう回復しないまま死んだという話に続いて、全校生徒で黙祷したっけ。

「すでに一部の生徒達は知っていると思いますが、大変残念なことに、夏休み中に皆さんの友達が一人亡くなってしまいました。」

 なくなるって、なんだか変な言い方だな。まるでものがなくなったみたいで。

「6年生の…………です。」

 僕はぼんやりと顔をあげた。
 何?
 なにいってるのさ。
 変な冗談やめてよ。

『 ―― 夏休みの初めの日に、自宅近くの川で事故に遭い、 ―― 』
『 ―― 遺体で発見されたのです。』
『6年生の ―― 君が、 ―― 』

『6年生の渚カヲル君が、夏休みの初めの日に、自宅近くの川で事故に遭い、必死の捜索にも関わらず、遺体で発見されたのです。』

 月が変わっても、まだ夏は終わっていないのに。
 こんなに暑くて、こんなに空は近いのに。
 まだ、空に浮かんだアイスクリームは溶けていないのに。

 土曜日のせいで、いつもより1日早く夏休みになったその日、

   川の上流の沢 ―― 溺れていた子猫 ――
    ―― 助けようと ―― 前日の雨で増水 ―― 流れが早すぎて ――
   水を呑んで ――
   みつかった時には ―― ――
    ―― ―― …

『毎年、水の事故には注意を呼びかけているのですが』
『彼はとても優しい少年でした。』
『彼のために、これから全校生徒で5分間の』

 黙祷を。

 白と黒に塗りわけられた視界が、すうっと黒くなる。立っているのに落ちる感覚。僕は多分、何かに縋ろうと、身動きしたんだと思う。けれど、まぶたの裏でくり返されるどぎついハレイションに、頭ががんがんと痛んで、きっと為すすべもなかっただろう。

『…またね、シンジ君』

 嘘つき。

 僕の意識は闇に呑まれた。




■■■




「あれ、まだ帰らないの、碇君」
「!?」
 忘れ物を取りに来た僕は、後ろから意外な人に声をかけられて、もうちょっとで驚いた猫みたいに飛び上がりそうだった。戻ってくる途中、人の気配を感じなかったので、まさか誰か残っているとは思ってなかったのだ。声の方に振り返ると、戸口に同じクラスの子がいる。あまり話したことはないけれど、とても目立つ彼は、人なつこい笑顔を僕に向けていた。
「渚…君、こそ」
「ごめん、驚かしたかな? 僕は先生に日誌を届けにいってたんだ。碇君は、 ―― あ、忘れ物?」
 教室に入ってきながら僕の手に握られた理科の教科書に眼をやると、得心がいったとばかりに微笑んだ。そのまま机に掛かっている鞄を取り上げる。
「宿題するのに教科書がないと困るよね」
「う、うん…だから僕、焦っちゃって…」
 屈託のない彼は物怖じしない性格で、みんなから好かれている。普段から引っ込み思案な僕は、彼とまともに話をするのも初めてで、何を言えばいいのかも判らずに言葉に詰まってしまう。どうしたらそんな風に誰とでも普通に話せるんだろう。
「あはは、そりゃぁ焦るよね、何たって明日から夏休みだし。」
 鞄に荷物を入れる彼に、僕も教科書を鞄にしまう。さっさと手際よく荷物をまとめた彼が、椅子を直して振り向いた。
「よかったね、間に合って。」
「えっ…あ…、…うん。ありがと…」
 掛けられた言葉は話し相手としてはつまらないだろう僕にも優しくて、僕はとっさになにを言うべきか狼狽え、やっと返した返事はなんだか冴えない言葉しか出てこなかった。こんな時、気の利いた受け答え一つできない自分が恥ずかしい。
「じゃあさ、一緒に出ようか」
「?」
「もう用事はすんだんだよね? それともまだ何かあるの?」
 肩に鞄をかけながら不思議そうに首を傾げられる。
「ないけど…あの…渚君…」
「カヲルでいいよ。」
「えっ、その…カヲル、君…」
 にこにこ笑ってそう言われると考えることもできなくなる。
「僕もシンジ君って呼んでいいかな?」
 僕はもう言葉を思いつく余裕もなく、ただ頷くしかできなかった。そのまま一緒に校舎を出ることになって、二人で並んで静まり返った廊下を歩く。僕ら以外にはもう誰も残っていないみたいで、足音が妙に響くのが落ち着かない。校庭に出てもグランドに人影はなく、僕達は黙ったままそこを斜めに突っ切った。校門までのプロムナードには、園芸委員会の子達が咲かせた向日葵が、背の高さを競っている。
「ずっと、君と友達になりたかったんだ」
 信じられない言葉に立ち止まった僕を、振り返った赤茶の瞳が見つめている。
「僕 ―― と、?」
 頷いて、薄い灰色の前髪越しの瞳が眇められる。
「嫌?」
 少し悲しげに言われて、僕は必死にかぶりを振った。けれど、何故僕なんかと友達になりたいんだろう。カヲル君には友達が一杯いて、僕みたいなのに声なんてかけなくても、カヲル君の友達になりたい子なんて幾らでもいるだろうに。
「いつも話しかけたかったんだけど、きっかけが無くてできなかったんだ。ねぇ、夏休み、一緒に遊ぼうね」
 嬉しそうに言われて、僕は頷いた。
 僕だって。
「あのね、カヲル君、」
 君と友達になりたかった。
「僕も、その、君と ―― 」




■■■




 僕は、カヲル君が好きだった。
 彼といると、僕はなりたい僕になれた。
 彼と一緒にいる僕が、僕の望んだ僕だった。
 他の誰よりも、カヲル君が好きだった。




「シンジ、ずっと、渚の名前 ―― 呼んでた」
「センセと渚、そんな仲よかったんか? オレら、ちっとも知らんかったけど…」
 保健室で目が覚めた時には、とっくに始業式も学級会も終わっていて、遠回りになるのに、トウジとケンスケが僕を家まで送ってくれた。帰り道、一言も話すことができなかった僕に、別れ際、二人がなんだか痛そうな顔で話し掛けて来た。
 何を言えばいいんだろう。
 二人の存在を、僕は持て余す。
 こんなとき、カヲル君なら、何を言わなくても判ってくれた。
 こんなとき、カヲル君なら、黙って僕を抱き締めてくれた。
 こんなとき、カヲル君なら、
 カヲル君なら、
 カヲル君なら、
  ―― ―― ―― ―― ――
「ごめん…もう、寝るから…」
 何も考えたくなかった。
 僕はもう、何も ―― 何一つ ―― 考えたくなどなかった。
 ゆっくり寝ろよ、とか、それがええわ、とか、言われて。条件反射のように頷いた。世界が端から色彩を失っていく。玄関の扉を閉めると、僕は鍵をかける。誰も入って来れないように。心にも鍵をかけるように。

 どこまでが現実で、
 どこからが幻想だったのだろう。

 僕が知ってるはずのこと、体験したはずの思い出。
 僕が知らなかった事実、僕の知りたくなかった現実。

 僕は何を現実だと思えば良いのか。

 その時の僕には、何一つ判断できるだけの余裕はなく、頭に住み着いた痛みだけが、僕を叩いていた。




■■■




 何かを忘れている。
 僕は、何かを忘れている。

 眼が覚めて、中途半端な部屋の明るさにぼんやりと意識を漂わせる。記憶はないものの、どうやらベッドには潜り込んでいたらしい。
 肌寒い空気に、体が勝手にぶるりと震えて、僕はタオルケットに潜り混んだ。まるで幼虫が蛹になるように、今はこのタオルケットが僕の殻。狭く暗い布の中にすっぽりと包まれて、僕はどろどろに溶けた虫のスープのように、ただ纏まらない思考の切れ端を浮かべては、また手放していた。
 細く息をつく度に、被った布の内側は湿ったぬるい空気に侵されていく。少しの息苦しさ、増していく閉塞感。僕は蛹になり、自分の中に残る彼の痕跡と溶けて混じってしまいたかった。僕が輪郭をなくしていく ―― 僕がどんどん曖昧になって、水の上に落ちた1滴の油のように、無防備な思考が限り無く薄く拡散していく ――

 何カヲ忘レテイル。

 ふっと忍び込んだ思考。
 僕は、何かを忘れている。
 蛹になった僕の中で、もどかしさが核を作り始める。忘れている、その思考は実感になり、僕はだんだんと固まりに戻っていく。
 忘れている、でも、何を?

  ―― ジジッ ――

 薄闇に微かに響いた蝉の鳴き声。その声は水に投げ込まれた石のように僕の上に波紋を描き、僕はタオルケットの殻から羽化するように這い出した。夜明け前の蒼くひやりとした空気。静寂の音。着たまま寝てしまってしわだらけの服のまま、僕はもうそのことしか考えられなかった。一点に引き絞られた思考に突き動かされ、ガラス戸を引き開けて僕は家を飛び出した。

 蒼い風景の中を駆け抜けて、何度も辿った畦道を渡る。鬱蒼とした森は暗かった。いつもの僕なら怖じけてしまったに違いない、けれど、その時の僕にはたった一つの事しか頭になく、それ以外は全てが無意味で。土と草を踏みしだいて、暗がりで石に転び、それでも痛さも感じない。風にざわざわと鳴る梢、時折響く鳥の声。
 辿り着いた時には、ぜいぜいと肩で息をしていた僕は、ごくりと空気を飲み込むと、幹に身体を預けて裂け目に右手を差し入れる。
 指先に触れるしっとりとした苔の感触。手探りで中を探し、指先に触れたものに、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。震える指でそっとそれを探り出す。
 引き抜いた腕、開いた手の平の中。
 飴色になった蝉の抜け殻。
 僕には、すでに現実と夢の境界線を明確に引くことはできなかった。




■■■




 朝が来て。
 僕は夢遊病のようにふらふらと家に戻ってきたらしい。
 折悪く帰宅していた両親に見つかり、酷い叱責を受けた。けど、僕にはもう彼らのどんな言葉も感情も届いてこない。だって、ぼくはいつも無意味。投げ出されたおもちゃみたいなものでしかない。こんな時だけ、パズルのように決まった場所にはまろうなんて虫が良すぎると思わない?
 少しづつ僕と似た顔、血を分けた体。親だという。僕をこの世界に出してくれたひとたち。けれど、その手は僕を暖めてもくれない。無意味なひとたち。無価値なことば。
 欲しいものはこんなものじゃなかった。
 僕の欲しいものは。
 赤い瞳と終わらない夏。
 手の中にあるものは夢のかけら ―― 宇宙船に乗って逃げ出したい。
 この悪い夢から。


 カヲル君のいない日々。
 もう誰も、僕のガラス戸を叩きには来ない。
 それを現実だと云うならば、僕は夢の世界の住人で構わないと思った。
 蝉時雨、アイスクリームの積乱雲、白と黒の真昼、捕まえた魚。
 あの、体が溶けてしまいそうに熱かった、僕達の秘密。
 どうして夏は終ってしまうんだろう。
 どうして、一緒に連れて行ってくれはしなかったのだと、「現実」に残された僕は、

 …カヲル君を、少し、恨んでも、いた。

 僕がガラス戸を開け続けて眠る事を、両親は許してくれなかった。
 何度叱っても鍵をかけようとしない僕を扱いかね、僕の部屋は2階に移された。以前の部屋の真上、窓しかない部屋。
 羽根でもなければ誰も僕を連れ出しはできない部屋へ。

 僕は、ベッドをぴったりと寄せた窓を閉めなかったけれど。




■■■




 そうして日常はゆっくりと僕を「僕」に引き戻して行く。
 カヲル君と居ない僕は、何もできない引っ込み思案の、神経質な僕でしかなかった。
 始業式以来、トウジとケンスケが何だか色々気を使ってくれるけど、それさえも、僕には何もできない自分を再確認しているようで、正直云って酷く煩わしかった。以前なら、こんな面白みのない僕をそれでも構ってくれる二人に見捨てられたらどうしようとばかり考えていたし、二人の親切をうっとおしく感じたことなどなかったというのに。
 僕にとって今の自分は、まるで半分をなくしてしまったような感じで。足りないことを知らないままなら、そのまま生きていけたのに、足りないことを思い知らされた今では、喪失感が僕を打ちのめす。カヲル君といれば成りたいものになれるような気がしていた僕も、結局は何の取り柄もない僕だ。僕は僕がますますキライになっていく。置き去りにされたことを、益々辛く感じていた。寂しさに打ちのめされて恨んでもいた。なのに、僕を置いて行ってしまったカヲル君が恋しくて、夜のたびに切ない想いが溢れ出す。
 これから、僕だけが年を取り、すぐにカヲル君の年令を追いこして、ゆっくりと大人に、そして全てに置き去りにされていくんだ。
 もう誰も彼ほどには好きにはなれないだろう僕だけが。
「…カヲルく、ん ―― 」
 自室のベッドの上で、薄いカーテン越しの月の光を浴びながら、僕は何度もあの時の感触を追い掛ける。
 呟いた自分の声が刺激になって、下半身を熱くする。無意識に、舌で唇を舐めていた。

  どうして僕だったの、
  どうしてこんなこと教えたの、
  どうして、どうして?
  僕は夢を見てる。
  悪い夢を、
  君を失った、あんまり酷すぎる夢を。
  早く僕を起こしてよカヲル君、
  もうこんな夢はイヤなんだ ―― ――

 自分の手で、自分の下着の中を探る。
 でもこれはカヲル君の手だ。
 カヲル君の、僕を欲しがってくれた手なんだ ――
 僕達の間では日常会話のように交わされた行為を、僕は夜毎くり返す。カヲル君がしてくれたように、ゆっくり、きつく、早く、緩く。耳元で囁かれた言葉、僕が何度も口走った言葉、まるでカヲル君の声が耳元で囁いている気がする、本当にカヲル君の指が僕を高めている気がする、
「…はっ、…、…、ふ、ぅ、 ―― …んぁ…っ、…、…、カ、カヲ…く・ん…!」
 体が火照る。あの夏の日々のように。
 僕に囁いて、僕を抱き締めて、僕を狂わせて行く気がする、
 あの時、僕の上で上気した顔を顰めたカヲル君が、吐息とともに云ってくれた言葉、何度もくれた言葉、
『…きだよ、シンジ君…』
 もう一度、僕を好きだって云ってよ!
 僕も、カヲル君、僕だって…!
「好き… ―― !」

  モウイチド、キミニアイタイ。

 体を何かが駆け抜けた。それに逆らう程、僕はもう何も知らないだけの子供ではなかった。
 僕の熱い狂乱は凝縮され、白い液体になって、僕の手とシーツを濡らした。
 僕の手とシーツだけを。
 熱の冷めていく体で僕は泣いた。
 わずかに体の中に残る熱が ―― 僕達の夏が ―― 秋に向かって死んでいくように思えた。




  カヲル君…




『 ―― シンジ君』
「ん、ん…?」
 真夜中にゆったりと揺り起こされて、僕は眠い眼を擦った。
『僕だよ、シンジ君』
 聞き慣れた柔らかい声、懐かしい匂い。僕はようやく眼が醒めた。飛び起きて目の前にいる人を信じられない思いで確認した。
 見なれた瞳、…今夜はやけに赤く見える瞳。
「カヲル、くん…?」
 シーツを掴んで、僕は開かれた窓を見た。今夜も鍵は掛けなかった。そうか、いつものように、玄関からではなく直接こっちに来てくれたんだね。
 でも僕のカヲル君は本当のカヲル君かどうかも判らない。だって、カヲル君はとっくに死んでて、あれから何度も僕は君が死んだという事を思い知らされて、その度に僕は傷口みたいに眼を赤く泣き腫らして、ここはいつもの1階じゃなく、窓しかない2階で、 ――

 ああ、そうか。
 もうここが2階なんて事さえ、カヲル君には何でもないんだよね。
 だって、君は、もう飛べるようになったんだもの。

 でも、
 それなら君は、
 僕を、
 迎えに来てくれたの?

 だったら僕は、「どうやってここに来れたの」なんて、聞かないよ。

『シンジ君』
 眼を細めてカヲル君が笑う。
 薄い灰色の髪、赤茶の瞳。そして、ほとんど日焼けもしていない、白い肌。
 ああ、それは、そうだ、カヲル君は今年の夏休み、日焼けをすることはなかったんだっけ ――
 彼は、夏の最初に。
 でも、僕は毎日一緒にいたのに。
 僕は急に判らなくなる。やっぱり、カヲル君は、僕の知ってるカヲル君じゃないのかな。あの時、裸のカヲル君には、うっすらと日焼けの跡があって、僕はその事に凄くどきどきしたのに。
 このカヲル君は、本当に僕のカヲル君なんだろうか。

『蝉の抜け殻はみつけたかい?』

 不安な僕に掛けられたその言葉で、更に混乱する。
 僕達の秘密の隠れ家、あの場所で、僕は飴色の蝉の抜け殻を見つけた。居ないはずのカヲル君との夏の思い出のかけら。
 僕と君の約束。
 けれど、夏休みが終った学校では皆が泣いていた。女の子はもちろん、男の子や先生まで。
 君の姿は、学校のどこにもなかった。
「 ―― ねえ、どう…すれば、いいの、どっちが僕の現実なの…?」
 不安で胸が痛くてたまらなくなって、唇が勝手に動くのを、何処か他人の語る言葉のように、空ろに聞いている僕。
「僕とカヲル君が友達で、一杯遊んで一番大好きだったことの方が?」
 それとも、
「僕とカヲル君とは友達でも何でもなくて、あの場所で蝉の抜け殻を見つけたのもただの偶然な方が!?」
 僕はついにカヲル君にしがみつき、答えを欲しがる言葉を叫びながら、その先を聞こうとしてもいなかった。ただ、カヲル君の感触が、懐かしい匂いが、優しい声が、逆に僕に淋しさを渦巻かせる。これは、この感触は僕のものじゃないの、あれは、あの毎日は何だったの、と。
「嘘だったの? 全部僕の見た、ただの夢だったのぉ…!?」
 沸き返った淋しさは、簡単に僕の殻を壊した。体の中で熱いものが涙を押し上げるのをどうすることもできない。ぼろぼろと流すに任せた涙でぐちゃぐちゃになった僕は、歪んだ視界が再びカヲル君を見失いそうで、何度も瞬きをするけれど、でも後から後から流れる涙でちっとも前が見えなくて、その怖さに必死にカヲル君に縋り付いていた。
 恐かった。ひどく、不安だった。君はきっと、僕を置いて行ってしまう、何処か、僕の行けないところへ ―― だって、君はもう何処にだって行けるんだ!

 (置イテイカレル。)

 その、ほんの一滴で十分に僕を殺せる毒が僕をどんどん侵していく。
 ふと手に鮮やかに蘇る感触。
 …誘惑は、そろりと僕の脳裏に滑り込んで来た。
 白い蝉。
 僕はいっそ、今このまま、カヲル君を潰してしまいたい。
 このままぎゅっと締め付けて、あの蝉のように、彼の羽も潰して、もうどこにも行けなくしたい。
 硬くなった黒い蝉は簡単には潰れない、けれど、白い蝉は。
 どんなに非力な僕でも。
 僕の右手が、微かに痙攣した。



『どっちが夢でどっちが現実かは、君が決めること』

 止まらない手の痙攣を見透かされたように。
 そっと囁かれた言葉に、僕はゆっくりと顔をあげ、カヲル君を見詰めた。

『どっちが「蝉」かも、君が決めていいんだ』

 どこか慰めるような瞳で、カヲル君は僕を見下ろしていた。

『君が呼んでくれたから、僕はここにいるんだよ、シンジ君』

 赤い眼。あの時の白い蝉のように赤い眼。

『だって僕はずっと、君と友達になりたいと思っていたんだ』
 白い指がそっと、わななく僕の唇を辿り、その後で、ゆっくりと ―― カヲル君の唇が触れる。
 滑り込んだ舌は、あまりに甘くて、その柔らかい感触に、僕は震えた。絡め取られた舌から、全身に向って、夏の感触が染み渡る。
『好きだよ、シンジ君』
 そういって、
 カヲル君は、
 今までで一番きれいにわらった。

 僕の唇が、ゆっくりと笑いの形に動く。
 とうに心と体はバラバラで、僕のコントロールから離れていた。
 他に欲しいものなんかない。
 涙と、もしかしたらハナミズまでいっしょになってぐちゃぐちゃの僕の額に、カヲル君がそっと唇を触れさせる。
 僕はようやく安心して、カヲル君に、泣き喚いてズキズキと重くなった頭を預けた。体がホッとして一気に力が抜ける。
 なんだかとても疲れてる、凄く緊張してたみたいだ。君についての嫌な冗談ばかりを聞かされて、つい本気で信じてしまいそうだったよ、僕。だからって怒らないでよね、カヲル君。だって、あれから君はずっと来てくれなかったんだから。

「大好き、カヲル君 ―― 」



 窓の白いカーテンが大きくふわりと揺れ、何かが通り過ぎて行った。
 秋の気配が忍び寄る小さな庭で虫達が再び鳴き始めた後も、部屋のカーテンは揺れていた。
 夜風はとうに秋の風だった。
 もう暖かくならないベットの上で、体だけが、粉々になった蝉の抜け殻を手の中に握り締めていた。



“君と友達になりたかった”



 こんな友達、欲しかったんだ。





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