boys of summer 空蝉の夏 - ( 1 )

それはあまりにも現実に近くて、僕はそれを疑った事などなかった。
なぜなら、僕にとっての現実は、むしろその「幻想」の方だったのだから。


boys of summer 空蝉の夏


「シンジ君」
 僕の部屋のガラス戸を叩く音がして振り向くと、そこには僕の一番逢いたい人がいた。
「カヲル君!」
 僕の部屋は1階の庭に面していて、カヲル君はいつも直接こっちに回って来る。僕の家は夜遅くまでお父さんもお母さんもいない。二人とも研究所に勤めていて、帰って来るのは遅いし、帰ってこないことも結構ある。そして僕は一人っ子だ。部屋で音楽とかをかけていると、誰かがインターホンを鳴らしても聞こえなかったりするから、頭が良くて物おじしないカヲル君は、さっさとこっちに来ることにしたみたいだった。
 駆け寄った僕は、からりと軽い音を立てるガラス戸を大きく開けた。
「遊びに行かない、シンジ君」
「え〜、もう今日の分の宿題終ったの!?」
 僕はびっくりして思わず叫んでいた。
 こうやって僕を誘いに来るのはいつもカヲル君で、それは彼が毎日の宿題のノルマをとっくに終わらせているということで。
「いいなぁ、カヲル君、頭いいもんね」
 僕がボヤくと、カヲル君はくすくす笑う。夏休みの宿題は、僕達を毎日最低1時間は机に座らせるくらいにはある。でも、もしかしたらカヲル君には30分かも知れない。僕には、時々2時間だけど。
「何、まだ今日の分、終ってないの?」
 カヲル君はそう云いながら、僕に誘われるようにして部屋に上がって来た。
「そーう! あと、算数がまだー」
 ふて腐れたようにそう云って、僕はちらっとカヲル君を見る。カヲル君も僕を見ていて、眼が合った僕に、やれやれといった風に笑った。
「いいよ、一緒にやってあげる。でも、答えはちゃんとシンジ君が考えなきゃダメだよ」
「そう云ってくれると思ってたんだー、カヲル君、大好き!」
 現金な僕の軽口に、僕らは二人で笑った。



 夏休みは始まったばかりで、積乱雲はにょきにょきと青い空に積み上がり、それはまるで青いお皿にたっぷりと盛られたバニラアイスのようだった。強く熱した日ざしは僕達を ―― 何もかもを白く晒し、黒く塗りつぶす。
小学校最後の夏休み、僕らは二人で思いきり遊ぼうねと約束していた。熱い空気は足下からすくい上げるようにして僕達をそわそわさせ、蝉は競うように鳴き交わし、緑は黒っぽい程に茂っていた。



「捕まえた!」
 網の中には大きな蝉が、ジィジィと鳴き喚きながらバタバタと羽をはためかせている。
「やったね、カヲル君!」
 僕はカヲル君がたぐり寄せた網を覗き込んで、戦利品を眺める。カヲル君も、捕まえた蝉を見ようと顔を寄せて来た。僕のすぐそばで、薄い灰色の髪がさらりと風に泳いだ。それに思わずカヲル君を見遣る。蝉を眺める眼も赤味の強い茶色で、肌の色も白い。カヲル君はハーフだ。なんだか不思議な感じのするその瞳の色が、僕は好きで。

 カヲル君は何でも上手い。虫を捕まえるのも、魚を捕まえるのも、僕はカヲル君にかなう事はなかった。駆けっこも、カヲル君は運動会でもいつも1番だったし、僕は力でも負けてる。腕相撲をやっても勝てたことなんてない。僕と同じくらい細いけど、身長も、カヲル君の方が少し高い。
 そんな、何もかもカヲル君に勝てない僕だけれど、僕は羨ましいとか妬ましいとか思うよりも先に、カヲル君が大好きだった。何でも出来てカッコいいカヲル君は、僕の憧れでもあった。しかも、そんなにカッコイイのに気取ったところがなく、誰にでも優しいから女の子にも絶大な人気がある。トウジとケンスケから聞いた話では、6年生の間ではまるで芸能人みたくファンクラブまであるんだって。(女の子って時々わかんないよね。)
 でも、確かにカヲル君ほど何でもできる上にきれいな子を、僕は他に知らない。以前僕が半分本気半分冗談で『ジャニーズ事務所に入れるんじゃないの』っていったら、シンジ君と一緒なら入っても良いけど、なんて云われた。(…冗談ばっかり。)

 僕が虫篭の蓋をあけると、カヲル君はにまっと笑って僕に云う。
「シンジ君、掴んでよ、セミ」
「ええ〜!?」
 思わず大声をあげてしまったけれど、カヲル君のニンマリ笑いはそのまんまだった。
 本当は僕はちょっと生き物が苦手だ。見てるだけなら全然平気なんだけど、特に虫は、なんだかくしゃっとしてしまいそうで。昔、まだ幼稚園の頃、田舎に遊びに行った時、手の中で羽化したばかりのまだ白い蝉を潰してしまった事があって、それ以来、蝉に触るのが一番怖いのに。その事はカヲル君だって知ってるのに。
「だいじょーぶ、そっとすれば。僕がついてるでしょ?」
 おもしろがってる。絶対おもしろがってる。だって、カヲル君の顔、ずっとニンマリしてるもん。
「シンジ君、ほら?」
 う〜〜〜、と犬のように唸ってみても、カヲル君は僕のそんな抗議くらいじゃ全然動じない。皆には内緒だけど本当は一つ年上のカヲル君は、時々、僕を弟か何かのように扱うのだ。(…嫌なわけじゃないけど、僕は兄弟とかってよく判らないから、ちょっとだけくすぐったいかな。)
「黒くなったセミは硬いから、そっとやったら平気だよ」
 云い募られて、僕はしぶしぶと手を出した。白く透ける網の中、蝉は大人しくなっている。…大丈夫、かも…?
「そっとね」
 網を地面におろし、カヲル君がそっと枠を持ち上げた。僕が蝉を網ごと捕まえようとしたら、ダメだよっていわれて、半泣きな気分。直接掴まなきゃ、だって。じっと見られてるから、しょうがなくこわごわと手を入れて、 ―― えいっ ―― 思い切って掴んでみた。でも、僕にできたのはそこまで。掴んだのはいいものの、何だか頭のどこかが白くなっちゃった感じ。
「シンジ君、シンジ君、そのまま篭にいれよう」
 蝉を掴んだまま固まってしまった僕に、カヲル君がさとしてくれて、僕は何とか気を取り直した。
 頼むから今だけちょっと大人しくしててよね。捕まえた蝉は手の中で微かに動いている。そのまま網から引き出して篭に入れようとすると、
 ジイイイイイイイイィッ!!!
 急に蝉が暴れて鳴き出した。
「うわぁっっ!」
 突然の事に驚いて手を放しかけた僕の手に、さっとカヲル君が手を重ねる。
「だいじょうぶ、平気!」
 驚きの余り後ろにこけそうになっていた僕は、カヲル君の強い言葉に注意を惹かれて、一瞬蝉の感触を忘れた。
「 ―― ほら、だいじょーぶ」
 …大丈夫?
 何が……あ、蝉、だ。
 僕達の重なった手の中で、蝉はまた大人しくなっている。そのまま篭に移して、虚脱したような僕に替わってカヲル君が篭の蓋を閉めた。今度は蝉は篭の中を狂ったみたいに飛び回っている。出口を探して狭い篭の中を暴れ回るから、あちこちにぶつかって、コンコンと堅い音を立てていた。
「ね? 大丈夫だったでしょ」
 自分の事のように嬉しそうに笑われて、僕はこくんと頷いた。
 触れた、蝉に。あんなに怖かったのに。
 カヲル君の手。
 魔法の手みたいだ ――
「カヲル君て、何でもできるよね」
 へたり込んだまま、僕は思わず呟いていた。
「え〜、何それ」
 カヲル君はまるで僕が冗談でも云ったように笑った。でも僕は、掛け値なしに本当に本気で云ったんだ。だから僕は、何という疑問もなく、さらに言葉を重ねた。
「凄いなぁ…カヲル君、カッコイイね」
 本当に、カヲル君は僕の憧れだった。
「僕にだって…できないこと、あるよ」
 カヲル君は、なんだか困ったように笑った。




■■■




 夏は僕達にとって、たぶん何か特別な働きを持ってるんだと思う。
 空気の成分が変わるのか、日差しの匂いが変わるのか?
 だって、普段はあんまり行動的でない僕でさえ、なんだかそわそわとさせてしまうのだから。




「…あ、これ ―― 」
 カヲル君は、通り過ぎようとした木の前に立ち止まって、幹の中程に手を伸ばしていた。何かを見つけたようだ。
 午後一番の森、蝉の鳴き声はおかしくなるほど必死で、その今を限りと鳴く声が、僕達を一層煽るのかもしれない。
 新興住宅地と昔からの住宅地を併せ持つ僕らの街は、少し山の方へ行けばそれなりに鬱蒼とした原生林の森があり、駅の方に行けばきちんと整備された川も、森の近くの方まで遡ると、昔のままの沢になっているところもあって、それなりに自然に恵まれていた。子供にとっては遊び場の宝庫だ。でも、これは少しカヲル君の受け売り。僕はまだ、川の上流の沢に行ったことはなかった。水だって下流よりずっと冷たいだろうし、なにより、僕は泳げないから、水辺にはもともとあまり行かないし。その沢にはカヲル君に誘われていたけど、何となくまだためらってしまうものがあって。

 森の入り口のあちこちには立入禁止の看板が立てられ、周囲を鉄条網の柵が取り囲んでいたけれど、森のギリギリまで開かれた畑の細い畦をぐるっと回ってしばらく行くと、農業用の灌漑用水路の側に小さな小屋がある。その小屋の後ろには鉄条網がない。小屋と柵の間には子供なら十分すり抜けられるほどの隙間があって、ここを通れば森に入れることは、僕達の小学校の子供達の間では公然の秘密だった。手つかずだった夏休みの自由課題に困った子供が、夏の終わりに必ず昆虫採集にくる場所なのだ。

「なに、何かあったの?」
 休みに入ったばかりのせいで、蝉の声以外には僕達の声しかしない森の中で、木漏れ日がカヲル君の白い手を水玉模様のように染めていた。伏せられた顔に、前髪がかかって、その薄い色の髪の毛も全部、ゆがんだ光の水玉模様になっている。差し出された手の中には蝉の抜け殻が乗っていた。
 僕もカヲル君と同じく全身ゆがんだ水玉模様になりながら、そのうす茶色の抜け殻をつまみ上げた。カラカラに乾いて半透明になった抜け殻の背中の部分はぱっくりと裂けていて、何となくそれを光にかざすと、空洞になった殻の内側は、まるでエイリアンの宇宙船みたいに不思議な形に思える。
「蝉って、何年も地下にいるんだよね」
 瞑っていた片目を開いてカヲル君に話しかける。
 カヲル君は僕にひっつくようにしてまだ抜け殻を見ていた。そのまま、熱心に「宇宙船」を分析でもしているように言う。
「さなぎから羽化するときには触っちゃダメなんだよ。羽がしわになったまま固まってしまうと、飛べなくなってしまうから」
「…飛べないとどうなるの?…死んじゃうんだっけ?」
「うん ―― …でも、出てきて飛べるようになっても、1週間くらいで死んでしまうけどね」
 1週間。それは前に理科の時間に習ったことがあって、僕も知っていた。7年も地下にいて、でも1週間で死んでしまう蝉。出てきたばかりの蝉は、白くて柔らかい。もちろん羽もくしゃくしゃで、蝉に限らずどんな昆虫も羽を伸ばす時が一番大変なんだと。堅く小さな花のつぼみが膨らんで大きく花びらを広げるように、しわくちゃな羽根を薄く剥がした雲母のように広げきるには何時間もかかる。もちろんその間は飛べないから逃げることもできないほど無防備で、そんなときに天敵に見つかったり、地面に落ちてしまったりしたら終わりなのだ。
「さなぎの時には、虫の体の中ってどろどろのスープみたいに溶けてるんだって」
「え、ホント?」
 思わず手の中の抜け殻を見る。この中に、どろどろのものが詰まってたって事?
「…それって…なんか気持ち悪い。虫って怖くない? 目なんて宇宙人みたい。」
 僕はぼそっと呟いた。だって、脱皮するだけじゃなくて、自分がどろどろに溶けちゃうなんて。やっぱり本当は虫って宇宙人なんじゃないの?
「うーん、もしかして、もの凄く昔に地球にやってきて、故郷に帰れないまま地球で生きて行くしかなくなったのかもね」
 くすくすと笑いながらカヲル君が抜け殻をつつく。ころっと手のひらの上で転がる抜け殻は、地球を侵略しに来た ―― でも、早く来すぎて失敗した ―― 宇宙人の証拠? そういえば、日曜の朝に見てるテレビの怪人にも、虫みたいなのが多いや。ホントはみんな、虫が宇宙人だって事を知っていて、でも言わないだけなのかも。(何で内緒なのかは知らないけど。)
「蚊とかも小さくてよかったね。あんなのが大きかったら、人間なんて生きていけないよ、絶対。血なんか全部吸われちゃってさ!」
「あははは」
 カヲル君がふざけて僕の首にかじりついてくる。吸血鬼みたいなその仕草に、僕はくすぐったさもあって声を上げて笑ってしまう。
「蝶とか蛾が大きかったら、僕らなんて羽ばたきで吹き飛ばされるんだ!」
 今度は僕からカヲル君に飛びついてやった。勢い余って僕らは地面にひっくり返り、ごろごろと2、3回転がった。草まみれになってようやく止まったときには、思わず二人で吹き出して、しばらく笑いが止まらなかった。何がおかしかったのかなんて判らない。でも、笑いの衝動は後から後から沸いてきて、僕らを虜にしていた。やっとその衝動が収まったときには、二人とも、急に酷使されたお腹の筋肉が抗議と悲鳴を上げていたくらいに。

 ふと、まだ手の中に抜け殻を持ったままだったことに気がついて、そっと手を開いてみた。
「虫達が宇宙人だっていうことを証明する証拠物件だね」
 抜け殻はまだ元のままの形を奇跡的に保っていた。光の加減で飴色に透ける抜け殻は、こうしてみると結構キレイかもしれない。カヲル君の言葉に頷きながら、僕はその抜け殻が特別のもののように思えた。宝物のように。
「僕達の秘密の場所に隠しておかなきゃ」
 僕達の秘密の場所。
 森の中に、大きな土管が幾つか放置されている所があって、僕達はそこを二人の内緒の秘密基地にしていた。コンクリートは苔むして、ひび割れたところから緑色になっていたけれど、直径が1メートルほどもあるその中は結構広くて、僕達が二人で入っても十分な余裕がある。その土管のすぐ横に、大きな古木が生えている。大昔に落雷でもあったのか、幹の内部が空洞なうろになってて。僕らはそこに他愛のない宝物を隠していた。ビー玉、何のためのものかも判らない拾った銀色の鍵、アンモナイトの化石のかけら。
 カヲル君がうろの中に蝉の抜け殻を置くのを見ながら、僕はぼんやりと、昔僕が潰してしまった蝉を思った。
 あの時、僕は。
 7年も地下にいて、やっと外の世界に出てきたばかりの蝉を殺してしまったのだ。
 それ以来僕は闇雲に蝉を怖いと思っていたけれど、本当に怖かったのは蝉の方だったんじゃないだろうか。
 僕の手のひらにすっぽりと入ってしまう蝉にとって、僕は宇宙人以上に怖い存在だったに違いない。あの時、まだ僕は小学生にもなってなくて、手加減といったことも判らないほど幼かった。そう、あの時 ―― 僕は ―― 手の中で動いた蝉に、とっさに逃げられると思って、自分でも思いがけず籠もった力に、その結果を手の中に認めて、今はもういないお爺ちゃんに泣きついた。何が起こったのか、僕はきっと、十分に判っていたのだと思う。だからこそ、あんなにも虫に…蝉に ―― 触ることが、怖かった。
 生まれ直したばかりでもろい宇宙人。
 抜け殻も乗っていない右の手のひらを、何度か確かめるように握ると、僕はそっと握りしめた。
 この間捕まえた蝉も、やっぱり逃がしてやれば良かったと後悔する。やっと蝉に触れたことに有頂天になって籠にいれたままにしていたから、翌日の朝見たときには既に死んでしまっていた。いつものように遊びに誘いにやってきたカヲル君と、庭の隅に埋めたのだ。
「……」
 振り返ったカヲル君は、そんな僕の心を察するように、僕の首に腕を回して引き寄せた。
 歪んだ水玉模様が、葉ずれに合わせてゆっくりと僕らの上で揺れている。
 カヲル君の眼は、木陰にいるせいか、いつもより少し暗い赤をしていた。




■■■




 ほとんど毎日のように、僕はカヲル君と夏の日々を過ごしていた。両親は日曜日も家にいた試しなんてない。晴れた日は外で、雨の日は僕の家で、僕らはお互いに相手と一緒にいることを楽しんでいた。僕らにはお互いがいればそれでよかったのだ。
 行ったことのない橋の方まで、行ったことのない公園まで。誰もいない空き地へ、僕らの秘密の場所にして。
 僕の行動範囲はカヲル君と一緒なら、どんどん広がる。
 もっと遠くへ。ずっと二人で。
 僕は冒険といえる日々を、カヲル君と過ごせる事に有頂天になっていた。




 空が近い。
 低い雲が、手をのばせば届きそうだ。青く宇宙と繋がっている空を見上げていると、今自分が上を見て立っているのか、どこかにぶら下がって下を覗き込んでいるのかも判らなくなってくる。照り付ける太陽に風船のように体が浮いているような感じがして、上に投げ出されているのか下に落ちていってるのか、なんだか僕は、ちょっと恐いような楽しいような不思議な気持ちになる。
「雲が近いね」
 隣で僕と同じように土手に寝転んでいたカヲル君が話しかけて来た。
「え?」
 青と白だけを見ている僕は、まるで自分の考えを見透かされたような気になった。同じ事を考えてたのかな。
「なんか体がふわふわしてるみたい。変な感じ」
 僕の隣から聞こえる楽し気な声は、低い空と僕らの間で空気に溶ける。僕は、似たような事を考えていたらしいことに、くすぐったいような嬉しさを感じて、こっそり笑った。
「あの雲、アイスクリームみたいじゃない?」
 僕はこんもりとした白い雲を指差した。
「シンジ君ったら、すぐ食べ物に例えるよね〜」
 ぷっと吹き出した音がしたかと思うと、すぐさまからかうような口調で、カヲル君が茶化して来る。どうせね、僕は食べ物ばっかりだけど。僕が唯一カヲル君に自慢できるものがあるとしたら、それは料理で、その事はカヲル君も凄いと誉めてくれるから、僕のたった一つの取り柄っていってもいいんだと思う。
「あれぇ、カヲル君、アイス嫌いー?」
 僕は日頃の仕返しとばかりに、空を見上げながらにんまりと笑って云ってやる。でも、返ってきたのは聞きなれたクスクスとした笑い声だけ。声だけで進むやりとりに、僕はなんだかひどく楽しくなってきてしまった。他愛のないことを互いに話し掛けながら、雲が動くのを眺めていた。こんなに楽しい夏休みは初めてだ。
 視界の端に、空に向かって伸ばされたカヲル君の手が泳いでる。
「…まるで水の底にいるみたいな感じもするよね」
 その手は、いつもの夏よりずっと日に焼けてしまった僕にくらべて随分白い。日焼けしにくいんだっていってたけど。
「うん。水の底から水面を見たら、こんな感じかもね。ほら、雲が、泳いでくサカナみたい」
 僕がそういうと、視界の端で ―― 僕とカヲル君の間で ―― 揺らいでた手が、ぱたんと落ちた。
「そうだね。似てるよ」
 あれ?
「カヲル君、そういうの見たことあるの?」
 僕はそれってどんなだろうと、わくわくして聞いたんだけど ――
 けれど、僕の問いには答えが返ってこなかった。
 いつもなら、カヲル君はそういった事は何でも教えてくれた。どうして返事が無いのか、それを不思議に思っていると、
「なんだか飛べそうな気がしない?」
 その、妙に明るく聞こえたカヲル君の声には、なんだか今の気持にそぐわないような、言葉にも似合わないような、寂しそうな感じが含まれていて、僕はどきっとした。
 寂しそう?
 カヲル君が?
 どうしてそんな事考えるんだろう、僕。カヲル君が、寂しそうだなんて。
 そんなのありっこないことなのに。
「夏って空が低いから、そのぶん天国が近いのかな?」
 どきん、と、僕の心臓は何の前触れもなく大きく脈打った。なんだかとても変だ。天国という言葉を、僕はなぜこんなに意識しているのだろう。
 どうして?
 どうしてカヲル君の声が、こんなに寂しく聞こえるんだろう。口調だけとれば、いつものように明るいのに ―― いつものように。
 僕は急に不安を感じて、思わず手探りでカヲル君の手を握った。だって、その声が、あんまり寂しそうで。雲と一緒にどこかに行ってしまうような気がしたんだ。
「シンジ君?」
 問いを含んだ声が、僕の名前を呼んだ。握った手だけではまだどこか不安で、それが僕にさらなる動きをとらせる。ぐるりと視界が反転して、僕は空へと飛ぶかわりに、夏草の緑とカヲル君で視界を一杯にする。抱き着くようにしがみついて、カヲル君が飛んで行ってしまわないように重石にでもなりたいような気分で、…。
 僕の中で、不安と言う冷たい風が起ったのを、僕はカヲル君の感触と匂いでやり過ごそうとした。
 天国が近いから、夏はこんなにも僕らを浮き立たせるんだろうか。
 だからカヲル君が何処かに行ってしまいそうに感じるんだろうか?
 長い長い夏休みがすでに半分以上過ぎていることに、僕はその時やっと気がついた。




■■■




 朝から特別暑い日。
 気温は、朝の10時にはすでに35度を超えていた。
 クーラーを効かせた部屋で、僕は懸命にその日の宿題をやっていた。今日の分は算数じゃないので、カヲル君がくる前にやっつけておきたかったし。
 暑さに我慢できずにいつもより1時間以上も早く眼が覚めた僕は、今日はプールにでも行って水遊びがしたかった。ちょうど、何日か前にお母さんに電話して、プールのお金をねだっておいてあったから。『友だちの分もお願い』と、僕が珍しくそんなことを言うので、多めの額を僕の貯金通帳に用意してもらっていたし、ちょっと恥ずかしいけど、僕は泳げないので、泳ぐのが得意なカヲル君に教えてもらえたらいいな、って。
「シンジ君」
 宿題を終わらせるとほぼ同時に、コツコツとガラス戸が叩かれた。
「凄ぉい、いいタイミング! ちょうど今宿題が終わったところなんだ」
 サッシを開けながら、僕はその偶然になんだかうきうきする。カヲル君は凄い。なぜだか、僕が来てほしいと思うときほど、タイミングぴったりに現れる。
「ねぇねぇ、今日はプールに行こうよ、カヲル君」
 上がってくる彼の腕を引っ張りながら言った僕の提案に、カヲル君は驚いたような顔をした。珍しいこというね、だなんて、口の中でもごもご呟いてるの、聞こえたよ?…まぁね、どうせ、泳げない僕がこんな事をいうのは、夏に降る雪くらい珍しいけど。でも、そのくらい今日は凄く暑いってことなんだけど。
「カヲル君、泳ぐの上手いから、教えてほしいんだ」
 でも、カヲル君はなんだかちょっと考え込んでいる。…初めて見る、困ってるようなカオ…もしかして、迷惑 ―― だったかな、?
「あっ、あの ―― 迷惑、だった?…無理にとは言わないけど…」
 僕は、さっきまでのうきうきした気分も吹っ飛んで、凄くしょげてしまった。プールに行っても、泳げない僕にただ泳ぎを教えるだけなんて、カヲル君はちっとも楽しくないに違いない。なんだか僕は自分だけに都合のいい、ひどく厚かましいことを考えていたような気になってしまって、そんな思いが僕のしょげ返った気持ちをさらに暗くする。僕は、僕の手がカヲル君に触れているのさえも、なんだか厚かましい振る舞いのようにしか思えなくなっていて、掴んでいたカヲル君の手を放してしまった。
「あのね、シンジ君、そうじゃないよ。迷惑だなんて、全然思ってない。僕もプールに行きたいけど ―― 」
 カヲル君が、僕を慰めようとしてくれても、一度言った僕の言葉は取り消せやしない。
 きっと、カヲル君は僕を厚かましい奴だと思ったに違いないんだ。
「だから! シンジ君? 僕は迷惑なんて思ってないよ。絶対にね。」
 カヲル君は、僕の肩に手を回して、俯いた僕の顔を覗き込むように話しかける。
「ただ、今日はシンジ君でさえプールに行きたいって思うくらいの天気だよね?」
 小さい子をあやすようなカヲル君の口調に、僕はひどく寂しいような気がしてならなかった。カヲル君は、今、僕に気を使ってくれてるんだと。僕らの間に、そんなものは一度も必要なかったのに。そしてそれを招いてしまったのは僕で。それがひどく悲しかった。堪えているのに、涙が出そうになって、僕はますます情けない気持ちになる。こんなことで泣くなんて、みっともないにも程がある。
「だからね、きっと ―― 」
 なのに、カヲル君は、笑うのを堪えていて ――
「シンジ君が泳ぐ練習ができるようなスペースなんて、どこにも見つからないと思うよ?」
 くすっと、ついにカヲル君が笑い出す。
「ニンゲンの間にミズがある、なんてところじゃ、僕だって泳げないよ」
 そのとき ―― 不覚にも、僕は ―― カヲル君の言った言葉を、かなり具体的に想像してしまって、今にも泣きそうになっていたというのに、今度は急激に笑いたくなってしまっていた。けど、僕としては、「泣いたカラスがもう笑った」みたいに気分がころころ変わっているのを認めたくなくて、なんとか涙と笑いの両方を堪えようと、奥歯と眉間に力を入れてみる。きっと、苦虫をかみつぶしたような変な顔になっているだろう。
 そんなことも、とっくにカヲル君にはお見通しだったらしい。冗談口調でカヲル君が次々と「人で埋まった窮屈なプール」のハナシをするので、ついに僕も小さく吹き出してしまった。得たりとニンマリ笑うカヲル君が少しだけ憎らしいけど、ともかくこれは僕の負けだ。
「ね? 泳ぐなら、もっと人のいないところがいいよね?」
 その言葉には、僕も同意せざるを得なかった。だって、それまでにカヲル君が並べ上げた「プール」の形容詞は、「混んでいて」「ぬるくて」「とても泳ぐなんて不可能」な場所だとしか聞こえなかったのだ。
「僕も、シンジ君と泳ぐなら他の人に邪魔されたくないし」
 結局、先ほどからカヲル君の手は僕の肩に回ったままで、当の本人はなんだかじっと考え込んでいて、僕は眼の前にアップで存在するカヲル君の顔を見つめることになった。夏休みが半分を過ぎても、カヲル君はほとんど日焼けしていない。その白い肌の上に長い睫が影を作っていて、半ば伏せられた薄い瞼は蒼白くさえ見える。まるで陶器でできた人形のように血の気の少ないその顔は、なぜだか僕を落ち着かない気分にさせた。
(おちつかない?)
(なんで?)
 どぎまぎと、僕は自分の考えに振り回される。
 自分の心臓の音が急に大きくなったような気がして、僕はなんだかせっぱ詰まったような、変な気分だった。
 部屋にはクーラーが効いているはずなのに、何だか変に暑い。
「ねえ、どうせなら、前に言ってた川にいこうよ」
 急に話し掛けられて僕は心臓が跳ね上がった。
 気が付くと、カヲル君の顔がすぐ近くで、今度は赤い瞳が僕を見つめていた。
 どくん。
 心臓が、壊れるかと思うほど、大きく鼓動を打つ。
「嫌?」
「え…っ、な、何が…?」
 声が上擦ったようになって、しかも心臓がますます早く鼓動を叩くので、言われた言葉を言葉として理解できなかった。
 ねえ、なんでこんなにくっついてるの…
 な、なんか、変な感じがする ――
「酷いな、聞いてなかったの?」
「ごめ…」
 お願い、何度でも謝るから、ちょっと放して欲しい。
 僕は訳のわからないものに追い立てられているかのように、せっぱ詰まった感じがして、ついに降参した。
「かっ、川だっけ、行く、行くから〜〜(放してよぅ!)」
「決まりだね」
 やっとカヲル君が僕を放してくれたので、僕は心底ほっとした。…なんでホッとしたかは判らないけど。
 でも、あんまり嬉しそうににっこりとされてしまうと、少し悔しい。おまけに頬が熱くて仕方ない。早く冷たい水に飛び込んでしまいたいほど。
 …今年の夏は、本当に、これまでのどの夏とも違う。




 山の中を川の上流へ行けば行くほど、緑が濃くなって、少しずつ空気がひんやりしてくる。
 僕の家を出て30分。川で遊べるそこそこの場所には既に先客がいて、僕達はそのたびに顔を見合わせると、さらに上流へと足を勧めた。それは家を出る前に聞いた「混んでるプール」の話のせいだったかもしれないし、泳げない僕が練習するには気まずいものがあったからかもしれない。ようやく僕達が誰もいない場所を見つけた時には、さらに30分ほどが経過していた。午前中の太陽は南中にさしかかっている。
 舗装された道から川縁へと続く細い道(だと思う)を下ってみると、遠出になってしまっただけのことはあって、川の水はとても綺麗に澄んでいた。相変わらず蝉の声がひっきりなしにしているのに、何故かとても静かな気がするほど、まるで知らない世界に来たみたいに綺麗な場所だった。
「あ!魚がいる!!」
 僕は思わず声を上げていた。
 木漏れ日を反射してきらめく水面の下を魚が横切るのがはっきりと見えたのだ。
「こっちに来てトクしたね」
 カヲル君が楽しそうにいうのに頷く。本当はもっと下流の場所が目当てだったんだけれど、そこには大学生くらいの人達が車で大勢きてて、バーベキューをしていた。なんだかお酒も飲んでたみたいで、とてもじゃないけど僕達がのんびり遊ぶような雰囲気じゃなかった。カヲル君がもの凄く申し訳なさそうに「ごめんね」っていうから、もっと上に行けばいい場所があるかもといったのは僕。なんだか僕は、初めてカヲル君に何かしてあげられたような気がして、凄く嬉しかった。それはとてもささやかなことなんだけど、ゼロじゃないんだと思うと、それだけで嬉しかった。
「きもちいいよ、シンジ君!」
 カヲル君はとっくに裸足で水の中に入っていて、ばしゃっと手で水をすくって僕へとかけてくる。水しぶきはしっかりと命中して、僕のシャツはずぶぬれだ。
「ずるいよ、カヲル君!」
 あははは、と、笑うのが憎たらしくて、僕も負けじとサンダルを脱いで川に入っていくと、山の中の水は思ったより冷たくて驚いた。思わず首をすくめた隙に、また水をかけられる。
「〜〜〜〜やったなぁ!!」
 僕は足で水を蹴って応戦する。その僕の反撃は結構効いたみたいで、カヲル君は慌てて川の中を移動した。それを追いかけて川の中で追いかけっこになった。お互い、隙を見て相手に水を被せあいながら、できるだけ自分はかけられないように逃げる。ざぶざぶという水音と、僕達の声と、蝉の声。足の下で踏みしだかれた川の底が土を巻き上げ、調子に乗った僕達が気がついた時には、とてもすぐに戻るような水の色ではなくなっていた。
 僕達は、しまったと顔を見合わせる。
 おまけに水中鬼ごっこはとっくに僕達の服をずぶぬれにしていて、何しに来たんだかって感じ。
 元々カヲル君が水着を持ってきていなかったから仕方ないんだけど、服まで濡らすつもりはなかったのに。
 ぷっと我慢できなくなって吹き出した僕に、カヲル君もつられた。けらけらと笑う声は、水音と蝉の声に似合うような気がした。
「ちょっと待てば泥が流れて水も綺麗に戻ると思うけど、ねぇ、もう少し上にいこうよ」
 僕を手招きすると、カヲル君は無造作に水の中を上流へと移動する。僕のいる場所は膝下くらいまでの深さで川底も砂だから安心していられたけど、カヲル君が向かう方向は水の色が濃くなっていて、少し深くなっているようだ。なんのためらいもなく水の中を進んでいく後ろ姿に、僕は何故か急に怖くなる。
「…待ってよ…」
 川の流れる音が急に大きさを増したような気がする。水の冷たさが倍増して流れが急に早くなったような気も。
「カヲル君、待ってよ」
 深い方へ行くのは怖い。でもカヲル君に置いて行かれる方がもっと怖くて、僕はすくみそうになる足を動かそうとするんだけど、どんどん離れる距離に、僕は胸が痛くてたまらない。無理にでも足を動かそうと下げた視線は水の流れを捕らえると余計に恐怖を生み出して、絞り出すように出した声は、水音にかき消されそうに小さい。上げた視線の先、カヲル君がもの凄く遠く感じる。どうしよう、このままじゃ…
 (置いていかれる)
「待って、」
  ―― 置いていかないで!
 泣きそうな気分で心の中で叫んだ時、カヲル君が振り返ってくれた。僕との距離に首をかしげると、ざぶざぶと水音を立てながら戻ってきてくれる。僕はやっとほっとして、情けなく震えていた膝に少し力が戻った気がした。僕は水が怖い。さっきまではカヲル君もいたから全然怖くなどなかったのに、一人で水の中に取り残されるのが本当に怖い。でも、何故こんなに怖いのか自分でも判らない。誰も教えてくれないけど、覚えてないほど昔に、怖い体験でもしたんじゃないかと思うほどに。こんなんで僕は本当に泳げるようになんてなるんだろうか?
「大丈夫、シンジ君。ほら、手出して ―― 」
 カヲル君は、ももの半分まで水に浸かる深さのところで立ち止まっていた。すんなりとした白い手が僕の方へ延べられ、肌の上で夏の木漏れ日が揺れている。ふと、この間行った森を思い出した。あの時も、僕らはこんなふうに二人だけで、歪んだ水玉が揺れていた。脳裏に蘇った穏やかな記憶に、強ばった身体が少し楽になった気がする。カヲル君は何でもないことだというように、僕へと手を差し伸べてくれている。その手は、僕にとっては魔法の手だ。カヲル君の手さえ取れば大丈夫だと言う思いに、僕はその手までの距離も忘れて足下も確かめず不用意に踏み出した。

 あっ、と思ったときには、踏み出した先にあった石の上に生えた藻に足を滑らせていた。膝が砕けて上体が泳ぐ。当然掴まるものもないままに、体が投げ出された。
 ばしゃぁん!!
 僕の耳に届くのは、こもった水音。視界は銀色の水の天井。
 滑り落ちた所は、急に深くなっていて、一気に身体が冷たい水に沈み込むのが判る。滅茶苦茶にもがきながら僕は、一瞬でパニックになった。足が届かない、ということは、泳げない僕には純粋な恐怖だった。僕は泳げない、僕は息ができない、僕は浮かび上がれない、僕は ――

 酸素を求めて痛む頭に、ついに詰まった息が口から溢れて、銀色の雲のような泡が立ち上る。次の瞬間、どっと口に入ってくる大量の水。視界が端から暗くなっていく。その時、もがく手を何かが掴んだ。
 ぐいっと引き上げられる感触に、わけも判らないままに縋り付く。首にかかる腕の感触、押し上げられるように水面へと導かれた。突然の弾ける光と肺に入った水が必死に酸素を求める僕をさらに痛め付ける。むせ返る僕を浅瀬に引き摺りあげる手。視界はまだ定まらないまま、僕は激しくむせた。咳と共に肺に入った水を吐き出しながら、大きな平べったい石に縋り付いた。大量の水を吐き出してからやっと、背中をさする手を感じて、その手の導くままにがんがんする頭を熱く焼けた石にもたせかける。額に張り付いた前髪をかきあげる指の感触になんとか目をあけると、ずぶぬれのまま心配そうに覗き込むカヲル君がいた。
「シンジ君、シンジ君!?」
 僕は自分が溺れかけたことも忘れてカヲル君の顔を見ていた。多分僕よりもずっと青ざめた顔は、痛そうに歪んでいて、銀色の髪から落ちる雫までが冷たそうだ。何度も頬を撫でる手と、その痛々しい表情に、僕は自分の身に起こったことよりもむしろ、彼の方がよっぽど辛そうで、整い切らない息を引きつるように継ぎながら呆然としていた。
「大丈夫!? ごめん、ごめんね ―― 僕がもっと気をつけてれば、」
 何故だろう。
 僕は、その時、カヲル君こそ怖かったのではないかと思った。
 それは確信と言えるほどの強さで。
 力の入り切らない手を延ばして、カヲル君に抱き着きながら、何度も頭を振る。
「…ごめんね、カヲル君…」
 そう囁いた僕の身体に巻きつきかえした腕は冷たく、震えていた。
 太陽に熱されて熱くなった石の温度は、震えながら抱き合う僕達を慰めるかのように優しく思えて、僕らは抱き合ったままじっとしていた。


 結局僕らは突然の恐怖から来る疲労と助かった安堵感に、抱き合ったまましばらくうとうととしていたらしい。冷えた体が石の熱さにホッとしたのかもしれない。眼の前にあるカヲル君の閉じた瞼。長い睫がゆっくりと動いた。薄く開いた瞼の間から少し沈んだ赤い瞳が覗いている。血の気が戻りきらない唇が少しゆるんだ。
「…寒くない?」
「 ―― どうして?」
 さっきまでの痛々しさを未だ残しながら、カヲル君はそれでも微かに笑ってくれた。水音と蝉の声。僕の知ってるこれまでの夏とは違う夏。君がいるだけで。僕に何ができるんだろう。そんなことを考えながら、無意識のままに、指先が唇に触れていた。薄く開かれたそこを撫でると、ちらりと舌が指先に触れた。その濡れた感触に、ぴく、と指が痙攣する。
「…帰ろうか」
 指が触れたままでゆっくりと動いた唇が漏らした言葉に、僕はぼんやりと頷いた。


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