銀兎文庫::novels1
僕は本当に健康だろうか?
僕には欠かせない日課がある。
朝起きてすぐ、薬ビンから綺麗な錠剤を取り出していく。
ビタミンA、B、C、D、E
目覚めのコーヒーと共に、
手のひらに盛り上げたそれらを次々と飲み下す。
カルシウム、カリウム、ナトリウム
僕は病気じゃない。だからこれも薬じゃない。
DHA、プロテイン、ナイアシン、ベータ・カロチン
これを飲むと体にいいんだ。朝昼晩、毎日欠かさず飲んでるんだ。
だから僕は病気じゃない。
これは栄養補助食品なんだ。足りないものを補ってくれるってこと。
飲めばいいことがあるはずだよ。
だって、死んだ母さんが、体が健康だということは幸せなことだって云ってたんだ。
この粒達は僕を安心させるためのオマジナイみたいなもの。
そう、これを飲んでいれば安心。
僕は僕を信じていられる、僕は僕を続けていける。
信じてよ、僕は、病気じゃないんだってば。
◇ ◆ ◇
「シンジぃ、学校行くわよ!」
今日もアスカが僕を迎えにくる。
学校は自宅から15分。駅前の坂道を降りた突き当たり。
これも僕のもう一つの日課。
もちろんこれはビタミンみたいに体にいいわけじゃないから
本当の毎日じゃなくて休みがある。
いつもの教室・いつものクラスメイト・いつもの授業。
これが日常。それで安心。
だから僕はシアワセなんだ。きっとそうなんだ。
いつもの教科書、いつもの風景、いつもの…
シアワセって、結構つまらないものなのかも。
毎日食べてると、シアワセって不味くならないのかな。
だから学校には休みがあるのかも。
やっぱり、不味くなるからなんだろうな…。
◇ ◆ ◇
昼休み、僕は一人でそっと屋上へ行く。
本当は施錠されているはずなんだけど、鍵が壊れているので問題ない。
昇降口の後ろにまわり、壁に背を預けて座り込む。
他に誰も鍵のことを知らないから、僕はここでなら一人になれる。
お昼を食べた後にもビタミンを飲まないといけない。日課だからね。
でも、教室とか学食とか、みんなの前では飲めないよ。
それに、また、アスカに何か云われるのもイヤだし。
『あんたバカァ!?そういうのを、依存症っていうのよ!』
どうしてだよ、これは体にいいものなんだ。
薬じゃないんだから副作用もないし、絶対安全な健康法なんだからね!
どうせ、ハナから信じてないんだろう?
初めから疑ってかかられたら、説明する気になれないよ。
だから、朝だって、僕は起きて一番にビタミンを飲んで、
アスカが僕を迎えにくるまでに何もなかったような顔に戻ってなくちゃいけないんだ。
朝から僕は疲れてしまう。だから一昨日、錠剤を一つ増やした。
…だって、疲れた分を取り戻して元気にならなきゃいけないんだ。
僕はお弁当を食べ終えると、昼の分のビタミンを入れたピル・ケースを開けた。
赤・青・黄・緑・紫・白……
色とりどりの錠剤が、真昼の陽光を受けてより鮮やかに見える。
一番お気に入りの一粒を摘んで、僕はそれを光にかざしてみた。
いつも一番最後に飲むためにとっておくヤツ。
暖かい春の太陽がきれいに照らす青空に、ツヤのある赤い錠剤が映える。赤と青のコントラスト。
「こんなにキレイなんだから、何かきっと、体にいいことあるよね ―― 」
僕はそう信じてるんだ。
僕は用意しておいた水を使って、ピルケースの中のそれらを飲み始めた。
一粒一粒、喉を堅い小さな感触が通り過ぎる。
これさえ飲んでれば、大丈夫。
僕は僕を好きでいれる。元気で健康な僕。そのために必要なものだから。
でも、どうしてだろう。
ケースの中にある粒が減っていくと、僕は最近何だか落ち着かない。
飲んでも飲んでも、何か足りない。
もっと量を増やせばいいのか、それとも新しい別のものを探そうか。
そうしてるうちに、ピルケースの中にはお気に入りの赤いのだけになる。
これが今日の昼の最後の一粒。
僕はケースの中に最後に一つ残ったビタミンを、どうしても飲み込めないでいた。
一番きれいな、赤い錠剤。
そう、僕はいつもそれを最後に飲むことにしてる。
なのに、それを摘み上げることもできずに、時間だけが過ぎていく。
どうしよう。昼休みが終わっちゃうよ。
「 ―― 飲まないの?」
「えっ!?」
急に声をかけられて、僕はとても驚いた。周りを見ても誰もいない。
空耳なのかな…そもそも屋上に来るのは僕くらいのはずだし。
「ここだよ、碇シンジ君」
上から声がして、僕は焦って顔を向けた。昇降口の屋根の上に人がいる。
雲のない青空を背景に、僕と同じ制服を着たすらりとした体と、
それから、
宝石みたいな赤い瞳。
まるで僕の反応を楽しむように、笑っていた。
いつのまにか僕は、その人に上から覗きこまれていたらしい。
僕は自分以外の誰かがいるなんて全然思ってなかったし、
知らない人から名前を呼ばれて、咄嗟にどう反応すればいいか判らない。
その人は、上から僕を見下ろしながら、にこにこと笑っている。
なんだか、とても不思議な感じの人だった。
「あ、あの…、僕の名前 ―― ?」
「飲まないの?それ」
え、と手の中のピル・ケースに視線を戻す。
この赤い錠剤はビタミンEだ。
僕がそう考えたと同時に、手許を影が走った。
その動きにつられてそちらに視線を向けた時、
彼は僕を飛び越して、とん、と屋上に着地した。
そのあまりにも身軽な動作は、目の前の人を僕と同じ人間かどうか疑うほどだった。
背中に羽根でもあるみたいに、軽々と飛んだんだから。
僕がそう思っても不思議じゃないよ。
振り向いたその人に、よく通る声で話しかけられた。
「いつも一人でここに来るよね」
呆然と座り込んだままの僕。
「シンジ君って呼んでいいかい?」
にっこりときれいに笑われて、思わず頷いてしまう。
「そう、よかった。僕は、渚カヲル。シンジ君もカヲルって呼んでよね」
カヲル君?
でもいいのかな ―― 襟の校章は3年生のもの。
僕は2年だから、先輩なのに。
僕が考えたことを察したのか、カヲル君はまたにっこりと笑う。
「いいんだよ、カヲルで。だって、僕らは共犯者みたいなものじゃない?」
共犯って、どうして?僕何かしたっけ。だって、初めて逢ったのに…
「共犯者って…あの、カヲル…君?何のことか、よく判らないんだけど」
「それはね、」
カヲル君は、ゆったりと僕に歩み寄ると、
ポケットに手を突っ込んだまま軽く体を屈めて僕に目線をあわせた。
「ここのカギが壊れてること、先生に内緒にしてる共犯者ってことさ」
僕がぽかんとしてる間に、カヲル君は僕の左隣に並んで座った。
「僕以外に屋上に来たのは君が初めてなんだ。
だから、僕は君と話がしてみたいと、ずっと思ってた。
僕はいつも君を見てたけど、君は僕には気がついてくれなかったね」
そう言われた、その口調と表情が何か寂しそうな気がして慌てる。
「ごめん、だってあの、誰も居ないと思って ―― 」
けれど、最後まで言う前に、目の前のカヲル君の眼が笑っているのに気がついた。
まるで悪戯の成功を待ってるみたいに、赤い眼が輝いてる。
「 ―― あ、あの…カヲル君…?」
…もしかして、からかわれた?
「ふふふ…ごめんね。ちょっと意地悪な言い方だったかな。
でも、君のことを見ていたのはホントだよ。
だから君の名前やクラスや、アスカって幼馴染みがいることも知ってるし、
いつも君がたくさんの錠剤を飲んでることも、僕は知ってるよ。
僕は君よりも前からここに来てたけど、初めて僕以外の同志が来たんだもの。
いつ僕に気がついてくれるのかな、と思ってたのに、ちっとも気がついてくれないから…」
そうだったんだ。
僕は、本当に全然気がつかなかった。
いつもアスカに『鈍いわねぇ、もう!』って云われてるくらいだもんな。
まして、屋根の上に人がいるなんて考えてもみなかった。
僕のことをそんなふうに見てた人がいるなんてことも。
「カヲル君も、その、いつもここに来てたんだ?」
僕が話し掛けると、カヲル君は頷いた。
「そうだよ。3年の僕の教室は2年の教室よりもずっと屋上に近いから、
君が来る前にここに来れるし、君が戻ってから教室戻っても間に合うからね。
それに、僕は特に屋上のあの屋根の上が気に入ってるから、
いつもここに来るとすぐに上に登ってしまうしね。
シンジ君が僕に気がつかなかったとしたらそのせいだったかもね」
「カヲル君以外には僕が初めてだっていってたよね」
カヲル君が、さらりと前髪をかき揚げる。
僕は、わけもなくその仕種に眼が吸い寄せられるのを感じて気恥ずかしさを覚える。
「そうだよ。一応、ここは立ち入り禁止ってコトになってるし…
あれ、シンジ君、もしかして知らないの?」
「あの、何を?」
「昔、ここから飛び下りて死んだ生徒がいるんだよ。
だから学校がここの扉に鍵をかけて、入れないようにしたって話」
…うそ ―― …
悪い冗談だったら、やめてよ。
僕は話の中身の突拍子のなさに一瞬思考がついていかなかった。
天気のいい真っ昼間に聞く話にしては、ちょっと非現実すぎる。
だって、ここはこんなに明るくて、こんなに穏やかで心地いいのに、
そんなの、全然信じられない。
僕はどんな顔をしていたのか、
「あれ、シンジ君怖いの?こういう話、苦手なのかな」
にやにやとするカヲル君に、もしかしてまたからかわれてるのかと思う。
「でも本当に本当の話だよ。まぁ、随分と昔のことみたいだけどね。」
どうやらからかわれたんじゃないみたいだ。
苦手とか怖いっていうんじゃないけど、本当に、
今のこの場所からはそういうことは全然想像できなかった。
これが夏の夜だとすれば、また違ったんだろうけど。
「でも、そのおかげでこうして君っていう共犯者に逢えたんだから、
僕は全然気にしないけど…それより、幸運だったっていうべきかな」
カヲル君の言葉がそんなことを考えてぼんやりしている僕を、春のお昼に引き戻す。
ふわりと風が吹いて、僕とカヲル君を取り巻いた。
そんなこと云われたの初めてだ。
それに、僕にこんなふうに笑いかけてくれる人も。
僕は何かとても嬉しくなって、普段なら云えないような言葉でも、
今なら自然に云える気がして ――
「あのっ、僕 ―― 僕も、嬉しいよ。カヲル君と友達になれたこと」
いつもは口に出せないようなことを云ってしまっていた。
自分で自分のそんな気持ちに驚きながら。
でもカヲル君は、少し僕を見つめていたと思うと、
「友達と共犯者は違うよ」
と、子供をあやすような調子で云う。
その口調に何となく含みを感じて、僕は、簡単に浮かれたことを後悔した。
バカだ、僕は。こんな人が友達になってくれるはず、ないのに…
いたたまれないような感じがして、僕は俯く。
僕みたいな取り柄のない人間が調子にのって浮かれたりするから、
しなくてもいい痛い思いをするんだって判っていたはずなのに。
さっさとビタミンを飲んで、教室に戻ればよかった…
「そう、僕は友達になりたいんじゃないな。だって友達なんてつまらないから」
歌うような調子で云われたことの意味が判らずに、恐る恐る顔を見返した僕に、
彼は眼を細めて笑いながら呟く。
「僕は、君と、もっとキモチイイコトが、したいな」
何か、頭の中に、爆弾を落とされたような感じがした。
けど、何を云われたのか、僕は頭が真っ白になったような気がして、
言葉の意味がよく理解できなくて、言葉を発することもできなくて、
にっこりと笑うカヲル君をただ見つめるしかできなかった。
「 ―― きれいだね、その赤いの」
カヲル君が云いながら僕の手の中のピル・ケースを覗き込んだ。
自然と体が近付いて僕の左肩にカヲル君の右肩が触れ、僕はどきりとする。
カヲル君は何か香りのものをつけているのか、ふわっと爽やかな匂いがした。
僕はあまり人とこんなにくっついたことがなかったから、焦ってしまう。
「ねぇ、それ、飲んでもいい?」
ふいにカヲル君がそんなことを言い出すまで、僕は硬直したように動けなかった。
これ、を?
でも…これは僕の一番きれいな錠剤で…
「ダメなのかい?」
僕がためらうように返事をできないでいると、カヲル君が顔を曇らせる。
さっきと同じに冗談なのかと思って見返してみたら、本当に悲し気な赤い瞳。
僕は何がなんだか判らなくなってくる。
「そんなこと、ない、けど」
「そう、よかった」
カヲル君は白い手で最後の1粒の赤い錠剤を摘まみ上げ口に入れると、
僕が飲んでいたボトルに無造作に唇をつけた。
あ…
ごくりと、白い喉が動いて、僕はまたどきりとなる。
赤いビタミン、
カヲル君、
水のボトル、
ここはこんなに明るいのに
空は青くて風は穏やかなのに
僕は何かトンデモナイことをしてる?
どうしてこんなにドキドキしてる?
どうして?
「いつも君が飲んでるから、僕も一度飲んでみたいって思ってたんだ」
とてもおいしそうに見えたから ―― そう云って、カヲル君は笑った。
「そ、そう…」
僕は変に熱いほほを意識しながら、相づちを打つ。
僕を見るカヲル君の赤い瞳が、悪戯っ子のように輝いてる。
「ああ、そうか…君の分がなくなっちゃったんだね」
「え、っ…いいんだ、別に、まだ家に帰れば沢山あるしっ」
「けど、決まった時間に決まった分を飲まなきゃいけなかったんじゃない?」
そうだけど、その通りなんだけど ――
「じゃあ、今度、僕がとっておきのをあげる」
カヲル君は、胸のポケットにささっていたペンを取って、
「左手を出して、シンジ君」
僕が云われるままに差し出した左手を抱え込むと、
「動いちゃダメだよ?」
僕の手のひらに直接文字を書き始めた。
「ちょっと、何するの、カヲル君!」
「ダメだってば、動いちゃ」
だって、そんなこと云われても!
ああ ――
「僕の携帯の番号。覚えるまで消さないでよね」
にっこり笑って念を押すと、ペンを胸に戻した。
僕の手のひらには、090で始まる11桁の数字が並んでいる。
「電話してくれるだろう?」
顔は笑ってるのに、何故か強迫されてるような、逆らえない感じ。
僕はようやく判った。
カヲル君の『にっこり』は、要注意だってこと。
でも、もう手後れって気もする ――
え、何が…?
僕はどうかしてる…だって自分が自分でわかんなくなって来てる…
「君にだけ、僕のとっておきの、赤いやつをあげるよ」
「赤い、…ビタミン?」
「ちょっと味見する?」
「え、いいの?」
「もちろん」
僕が自分の知らないビタミンに興味をそそられていると、
カヲル君の上半身が僕に覆い被さって来た。
な、なに?
きれいな顔が近付いて、赤い瞳が視界を占める。
白い手が襟を掴んで、僕のシャツの胸元に、顔を埋めた。
―― 熱い、!
鎖骨のまん中の少し下、急にそこに火がついたみたいに熱い。
「どう?」
間近に顔を上げたカヲル君に、僕はほとんどパニック状態だった。
何だこれ、何だこれ、何だこれ
熱を持って、疼いてる
そこだけ血の流れが脈打ってる
「ほら、赤い…」
にやりと口の端を歪める彼。
熱さを感じたその場所に、赤い跡がひとつ。
まるでカヲル君が飲み込んだビタミンが、そこにあるみたいに。
午後の授業の5分前を知らせるチャイムが響く。
はっと我に帰った僕は、被さったまま意味深な笑みを浮かべるカヲル君に呟いた。
「もう、いかなきゃ…」
「そう」
ふっと体が軽くなる。カヲル君は最初のように壁にもたれた。
時間を気にして慌てる僕を、彼はのんびりと見てる。
「授業、始まるよ?」
思わずそう聞いた僕に、カヲル君は楽し気に云う。
「いいんだよ」
「だって」
「僕は僕のしたいことをするのさ。さぁ、君はもう行かないと遅れるよ」
そう諭されて、立ち上がると歩き出した。
早く戻らないと授業に遅れてしまうし。
けど、何故か後ろ髪を引かれるような思いの僕がふと振り返ると、
カヲル君は悪戯の仕上げのように僕に笑った。
「胸元のボタン、留めておいたほうがいいよ、きっと」
胸元…?
―― あ!
かっと顔中に血が登って、胸元を掴むと、僕はそこを逃げ出した。
かすかに、楽し気なカヲル君の鼻歌が聞こえてた。
◇ ◆ ◇
顔を赤くして戻った僕に、アスカが話し掛けてくる。
「どうしたのよ、バカシンジ!真っ赤な顔して、熱でもあんの?」
「あ…、な、なんでもないよ」
焦ったままの僕は、上手く反応できずに、伸びて来たアスカの手を咄嗟によけてしまった。
はっとしてアスカを見た時には、もう怒らせてしまっていた。
「何よ、このあたしが心配してやってるのに!」
確かに口は悪いけど、アスカがそういうのも嘘じゃなくて、
本当に心配してくれてるんだって判ってるけど、
「ごめん、アスカ…あの、先生来たから、」
教室のざわめきが、ドアの開く音で一気に退けたのに、アスカも気が付いたみたいで。
「 ―― まぁいいわ」
怒ったような口調の彼女が離れて席に戻って行く。
僕はアスカの言葉も、始まった午後の授業も、全部が全部上の空。
頭の中でどくどくと血が流れる音がして、それどころじゃなかったんだ。
◇ ◆ ◇
委員長と話し込んでるアスカに気付かれないようにそっと教室を抜け出すと、
僕は一目散に家へと帰った。
あれからずっと頭の中で、蒼い空と赤い眼がちかちかして離れない。
ハレイションを起こした思考は半ばストップしていたし、まだ、鎖骨の下が熱かった。
部屋に駆け込んで、後ろ手にドアを閉めると、
急に身体中から力が抜けて、ずるずるとその場にへたりこんでしまう。
体育の時間にもしないほどの全速力で走ったせいで
こめかみがどくどくと痛かった。
どのくらい経ってか ―― 相当時間が過ぎてから、僕はようやく少し落ち着いて、
のろのろと立ち上がるとキッチンへと歩いた。
帰って来たときには明るかった部屋の中が暗くなってる。
喉はカラカラで、頭はガンガンしてて、最悪の気分。
ビタミン、飲まなきゃ。
赤いやつ。
昼間飲めなかったから…
キッチンで水を酌んで、戸棚のビタミンの瓶から赤い粒を取り出した。
でも、左の手のひらにそれを乗せた途端、
めまいを感じてよろめいて、コップを床に落としてしまう。
僕はどうなっちゃったんだろう…
胸元の、熱いのが、とれない…
これは、何かの病気なんだろうか
赤い瞳が、僕の頭の中で、
赤い痕が、僕の胸の中で、
カヲル君の赤が…
…カヲル君の、赤が ――
立っていられなくなって、僕は床に蹲った。
『友達と共犯者は違うよ』
僕は病気じゃない、はず。
『そう、僕は君の友達になりたいんじゃないな』
『だって友達なんてつまらないから』
僕は、病気じゃ、ない、よね?
『僕は君と…』
手のひらに、綺麗な赤いビタミン。
彼も、綺麗な赤い眼をしてた。
距離を置いていたいと思うのは何故?
なのに弾けそうなこの衝動は何?
毎日3回、飲みきれないほどの数の錠剤の、重さ。
ビタミン。
僕は、病気じゃない、病気じゃないのに、
どうしてたくさんの薬ビンに囲まれないと生きていけないんだろう。
僕はヘンなんだろうか?
でも、体にイイコトしてるんだよね?
そうだよね?
間違ってなんかいないよね?
『友達よりももっとキモチイイことが、したいな』
僕はどうして、こんなものが必要なんだろう。
綺麗な錠剤、飲みやすいカタチ。
(僕は安心なんだ、安心ナンダ、アンシンナンダ…)
『依存症っていうのよ!』
ビタミン。
でも、これは、オイシクナイ。
甘い糖衣でごまかさないと。
液体と一緒に流し込まないと。
オイシイんだと思いながら流し込まないと。
手のひら一杯の不幸せ。
どうして飲まないとシアワセになれないんだ?
もしかして、僕って不幸なのかな?
そういう僕って、不幸なのかな ――
赤い錠剤。
赤。
あか。
あかい、め。…カヲル君の、眼。
ビタミンよりもきれいな赤。
『友達よりももっと』
『キモチイイことが、』
『したいな』
体が熱くなって、僕は、反射的に左手を握り締めた。そこから何も逃げないように。
赤い錠剤を握り締めたまま、灯りもついてない居間の電話の受話器を上げる。
電話のボタンが誘うように緑色の光を放つ。
握った手のひらをそっと開くと、そこには11桁の番号。
僕はそのままその数字を押していく。
RRRRRR…RRRRRR…
RRRRRR…RRRRRR…
RRRRRR…RRRRRR…
『 ―― はい、渚です』
カヲル君、
名前を呼ぼうとしたけど、僕はのどが乾いて声が出ない。
『もしもし?』
焦れば焦るほど、僕は何も言えなくて、受話器を握り締めたまま、
思う通りに動いてくれない自分の口をもどかしく思った。
切れちゃうよ、このままじゃ ――
何かいわなきゃ、
どうしよう、切れちゃう、イヤだ…!
「 ―― ―― …、」
言葉にも音にもならないものが喉をかすめた。
『…ふふ』
耳をくすぐられるような笑い声に、僕はかすかに息をつく。
『シンジ君だね?…電話、待ってたよ』
カヲル君の言葉に、金縛りにあっていたような体が少し緩む。
どうして僕だって判ったんだろう。
どうして僕が電話するって判ったんだろう。
どうして待っててくれたんだろう。
『かけてくれて嬉しいよ、シンジ君』
カヲル君の声の後ろで、幽かに水音がしてる。
その音が、自分の体の中を流れるものの何かと呼応してる。
多分、カヲル君に胸から注ぎ込まれた何かに。
飲んだ後のビタミンって、体の中でどうなるんだろう?
「… ―― 何処に、いる…の?」
僕は自分のじゃないみたいに掠れた声で絞り出した。
くすっと、受話器の向こうでカヲル君が笑う。
『ここに来るかい…?』
ごくり、と空気の固まりを飲み込む。きっと聞こえてしまった。
『どうするの?』
カヲル君の話し声は楽しそうに笑いを含んでいた。
軽く響くそれが、受話器越しに僕の周りに立ちこめて、僕を捕らえる。
「カ…ヲルく…、ぼく、…、」
『僕のビタミンはとてもよく効くよ』
もう知ってるよね、と、吐息のような笑い声が鼓膜をくすぐる。
僕は自分を取り巻く笑い声の成分と一緒に、空気の固まりを飲み込んだ。
次の瞬間、耳の中に、
飲み込めなかった赤い錠剤の成分を直接押し込まれた気がした。
『キモチイイこと、しようね』
僕の、赤い、一番きれいなビタミン。
シアワセなあかいカタチ。
きっと、とてもオイシイ ――
「…ウン」
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このビタミンは、副作用あるかも(笑)。
少なくとも、中毒性は持ってるでしょう ―― シンジにはね。
ginto-bunko