sweets, melting point

 夕焼けの赤が、だんだんと夕暮れの青みにとって変わりだす頃。
「――そろそろいいんじゃない? もう誰もいないみたいだし」
 僕は時間を潰していた音楽準備室の窓から人影のなくなったグランドを見下ろすと、コートに袖を通して鞄を手にとった。
「そう? じゃぁ帰ろうか」
 僕の様子に納得したらしいカヲル君もコートと鞄を取り上げる。
 部屋の電気を落とすと意外に暗くなって、それが時間の経過を物語っていた。
「ごめん、シンジ君。遅くなったよね」
 帰りが遅くなったのは、今日は人気がなくなるまで外に出たくないってカヲル君がいう(というより拗ねる)から、仕方なくそれにつきあったから。
 今日は2月の14日で、世間はいわゆるバレンタインデーだ。そしてカヲル君は「バレンタインデー」を心の底から嫌がっていた。もちろん、もらえないからじゃない。むしろその逆なのが問題だった。カヲル君の転入直後の去年、大変な騒ぎになったこともすでにウチの中学では伝説として知れ渡ってる。チョコをあげたい女の子は山ほどいるし、今日だって、僕のクラスでも何人かがどんなチョコを持ってきただの、いつ渡すのがいいかだのと騒いでいたくらいだ。
 要するに、カヲル君はバレンタインデーに絡んだ面倒ごとが嫌いで、女の子たちから逃げ回っていたってことなんだけど。
「別にいいけど。でも、今日のネルフはカヲル君の奢りだからね」
 僕らは階段を後に先になりながら降りていく。
「うん、オッケ」
 2、3段先に行ってたカヲル君が、振り返りざま無邪気に笑うのを見ると、数時間つきあわされたことも『まぁいいか』とか思っちゃうんだから、カヲル君てトクな人だと思う。

 まだ知り合って1年ちょっとだけど、まるで僕らは生まれた時からの幼馴染みのような感じだった。僕の家の2軒向こうに引っ越してきた渚家の一人息子は、どちらかというと警戒心が強いはずの僕の隣にいつのまにか当然のように立っていた。
 その見た目は、銀色がかった鳩羽色の髪に赤い瞳、しかもすらっとした長い手足と実に派手で、文句無しの美形だ。転入早々ファンクラブができたらしい(これは裏事情通のケンスケから聞いたから、間違いないだろう)。とはいえ、最初は人懐っこく感じられる性格は、決して外見ほどいいわけじゃない。誰にでも最初は人当たりがいいけれど、深く知ってみれば結構気分屋だし、強引だったり拗ねたりするような子供っぽいところもある。けど、むしろそれは僕にとってつきあいやすい歓迎すべき部分だった。もし彼が見た目も性格も文句のつけようがない人だったら、きっと僕は最初に気後れして、こんなふうに友達としてつきあうこともできずに『近所に住んでる渚先輩』って感じだったんじゃないだろうか。

 人気がないせいかやけに声が響く校舎を出ると、2月の外気は結構低い。通り過ぎた北風におもわずふるりと震えが来て、僕はマフラーをきちっと巻きなおした。…カヲル君はコートも着てない。ドイツの北部に住んでたって言ってたから、この程度だと寒くないのかもしれないけど、幾ら本人が寒くなくてもちょっと見てる方が寒いかも。
「…どうかした?」
 カヲル君の背中を見てただけなのに、突然くるりと振り返られてちょっと焦る。猫並みに気配に聡いんだもんな。それとも、僕の気配が判りやすいんだろうか。
「寒くないの?」
「んー、あんまり。シンジ君は寒いの?」
「普通、2月の夕方は寒いと思うんだけど」
「ふぅん」
 ふぅん、って。…いいけどさ。


 学校を出ると、帰宅ルートにあるいつものコンビニ「ネルフ」に寄る。ここはうちの学校の生徒や近くの高校生の定番の店で、店鋪は少し小さいけど、取り揃えられた商品は中高生の好みをちゃんとリサーチしてるので人気が高い。
 僕らはそれぞれ自販機に入ってないメーカーのドリンクが好みで、ネルフはそれを店内で扱っていたから、帰り道には自然と毎日のように寄ることになっていた。
 いつもはクラブ帰りの子達で結構混んでるのに、普段よりも時間が遅いので、店内にはあまり人がいない。僕はまっすぐに一番奥の冷蔵ケースに向かった。
「ミルクティならこれだよね」
 カヲル君がご機嫌な表情でいつもの銘柄をウォーマーから取り出す隣で、僕は自分の選んだものをカヲル君に差し出す。
「…アイス? “寒い”のに?」
 きょとんとするカヲル君に、僕はウォーマーからホットレモンを取り出して追加した。報酬としてこのくらいはいただかないとね。
「あったかいのと冷たいのを一緒に食べるのがイイんじゃん」
 いつも明るいレジのお姉さん(ミサトさんっていって、グラビアモデル並みのプロポーションの持ち主なせいか、近隣の男子学生に絶大な人気がある)相手に買い物を済ませると、店を出た。

 ネルフの向かいにあるちょっと広い公園を通り抜ける途中で、カヲル君は近くにあったベンチに腰をおろした。その隣に僕も腰をおろす。気温のせいか時間のせいか、公園には人も鳩もいなくてとても静かだ。僕は早速コンビニの袋からアイスのパッケージを取り出した。カヲル君もかしっと音を立ててプルトップを引き起こすと、湯気を立ててるミルクティを一口飲んだ。僕も手渡されたホットレモンを飲む。あぁ、寒くて冷えた体にあったかいドリンクって最高だ。それがおごりならなおさら。
 普段はどっちかというと話題のつきないタイプだけど、今日のカヲル君は黙りがちだった。もちろん、カヲル君だって四六時中話してるわけじゃないけど。今日は逃げ回ってただろうから、もしかしてやっと一息つけたとか?
 僕にしても気心が知れてるカヲル君との間の沈黙は気詰まりじゃなかった。少し寒いけど、手の中のドリンクはあったかい。お互いの息だけが白くて、のんびり好きな飲み物を飲んで、ちょっとぼーっとして――こういうのもたまにはいいかも。
「…なんか、お腹空いたな」
 そんなことを思ってたら、カヲル君がそう呟いてぼんやりと空を見上げる。よっぽど気が張ってたらしい。普段は姿勢がいいのに、くったりとベンチに背中を預けてしまってる。
「さっきネルフで何か買えばよかったのに」
 それとも、少しだけ胃にものが入って逆に空腹を意識したんだろうか。
「カヲル君、誰かから1個くらいはチョコとか貰ったんじゃないの?」
 朝一緒に登校してる僕が見てた限りでは、今朝はわざとギリギリに駆け込んだから逃げ切れたみたいだったけど、女の子たちがそれで諦めるとは思えなかった。
 正直云って放課後隠れたくらいじゃ焼け石に水っていうか、授業の合間や昼休みだってあったんだから、いっそ休んだ方が早かったんじゃないの?ってくらいだし、一人くらいは強引におしつけてそうなものだ。
 そんな僕の意見を聞きつけて、ああ、とカヲル君は小さく肩をすくめた。
「断ったよ、全部」
「へ?全部?」
「だって、食べないもの貰っても仕方ないじゃない」
 いや、それは確かに一理あるんだけど、僕がひっかかったのはそこじゃなくてね。
 『全部』って。…一体朝から何人断ったんだろう。
 (この不機嫌さだと、20人は下らないんだろうな…)
「もともと甘いものあんまり食べないし。僕が好きだっていうなら、少しは好みを考えてほしいよ」
 確かに、カヲル君は甘いものが大好きってタイプじゃない。時々は食べるみたいだけど、それだって他の人よりも結構付き合いがある僕でさえほんのたまにしか見ないから、チョコばっかり山程もらっても嬉しくないのは仕方ないけど。
 思い返せば去年も同じような会話をした記憶があった。その時も同じようにぶぅたれてたけど、断るにも下手な言い方をすると逆効果だったり泣かれたりしてこじれるから困る、とこぼしていて、その気持ちは僕もなんとなく分ったけど…。

 去年、朝一番に勇気ある(?)最初の一人の差し出した包みを、意味も知らずに受け取ってしまったのがカヲル君の運のつきだったというか、すでに壱中の伝説となったあの騒動の始まりだったと思う。受け取ってもらえると判るとその場でいきなり女の子に群がられてプレゼント攻めにされて、最初カヲル君は何が何だか判らなかったみたいだった。ドイツ育ちの彼に、僕が『日本では、バレンタインには女の子から好きな異性にチョコをあげて告白できるんだ』と説明しても、まだ半分くらい理解できてなかったらしい。(カヲル君が日本の女の子のことをまだよく判ってなかったのもあるかも)
 ところが、あっという間に抱えきれないほどのチョコを押し付けられた事で周りの男子にはやっかまれるし、本人はよく解らないまま押し付けられただけなのに先生には一方的に注意されるしで、午後には受け取ることを断ったら、他の人のチョコは受け取ったのに何故自分のはダメなんですかと、今度は人前で散々泣かれたのだそうだ。
 カヲル君だって、チョコの意味が判ってたら最初から受け取らなかったのだろうに。だから正直いうと、去年の僕はカヲル君をかなり気の毒に思ってた。

 ――でもなぁ…
 カヲル君は知らないけど、今日は僕だって結構大変だったんだよね。近所に住んでる僕らが一緒に登下校をしてることは周知のことらしく、僕からカヲル君に渡して欲しいと頼み込もうとする子もいるんだ。カヲル君が困ってるから悪いけどそういうのは出来ないって断ったけど、ああいうのはあまり気分がいい役目じゃない。カヲル君がそれを知ったらもっと機嫌を損ねそうだから彼には言わないけどさ。
 眉間にうっすら立て皺を刻んだカヲル君を横目で見ながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす様子に、僕はまるで気紛れなチンチラ猫といるような気分になる。
 (実際、似てるよな…カヲル君、見た目も僕の家の向いのマンションのタブリスそっくりだし。)
 自分だけでこっそり「カヲルダッシュ」と命名しているチンチラシルバー(本名タブリス)は、向かいの高級マンション《ペット可》の住人の飼い猫だ。毛先が銀の白い毛並みにルビーみたいな赤い眼で、見た目の良さと上辺の人なつこさにファンは多いけれど、プライドが高くて自分に触ってもいい人間をシビアに選ぶ。自分で決めたテリトリー内には自分が認めた相手しか寄せつけないとこなんて、まるっきり双児のように似てる。
 双児っていっても、ネコと人だけどね…
 カヲル君とカヲルダッシュにはドアがふたつあるんだよな。
 誰にでも開いてる最初のドアと、わずかな人にしか開かない内側のドアとが。

「そんなに断るのが大変なら、いっそ貰うだけ貰ってもいいんじゃないの? 別にさ、食べる義務はないんだし」
「えー、シンジ君だって去年のことは知ってるじゃない。周りには嫌味言われるし、先生には怒られるし…」
 彼にとってバレンタインデーは一年で一番最悪な日として認定済みになってしまってるから、ミルクティの缶をもてあそびながら口調がどんどん拗ねていく。…変なとこで子供だよ。カヲル君に憧れてる女の子はみんな、こういう子供っぽいとこなんて知らないんだよね。彼女たちの夢を壊すのも悪いような気がするから、僕だって誰にも言わないけど。…誰に言っても信じてもらえそうにもないし。
「第一、ほんとにもらったら荷物になるし、ホワイトデーが面倒。全然知らない子がほとんどだし」
 (――はいはい、カヲル君はそうでしょうとも。)
 多数対一人じゃ確かにホワイトデーは恐怖だろう。そもそもホワイトデーだって、去年僕が説明するまで知らなかったくらいだしね。カヲル君は人当たりはいいけど、彼が知り合いや友達だと認識してる人の数は、実はかなり少ない。興味を感じない相手は記憶に残らないらしい。判る範囲の相手にはちゃんとお返しを渡してたみたいだけど、持ってきた人の顔も名前もよく判らないチョコの分をどうすればいいのか困り果てたあげくに、最後はとうとう『なんで日本にはこんなやっかいな風習があるんだい!?』って、不機嫌のどん底だったっけ。
 一方的に気持を押し付けられて困る気持ちはかなり判るけど、この口の悪さはちょっとね。アイスとドリンクだけでなく、もっと何か買わせてもよかったかも。僕が呆れ半分やっかみ半分の独り言を心の中で呟いた時、
「…僕だって、貰って嬉しい相手なら喜んで受け取るけどさ」
 そう云って、カヲル君はどきっとするほど深いため息をついた。僕は意図せずカヲル君の横顔を見つめていた。

「――シンジ君は?」
「僕?」
「うん」
 ………何で聞くかな。僕はチョコレートを断るのに苦労した経験なんてないよ、どうせ。でも、それが普通じゃない?
「僕なら、貰えたら喜んで持って帰るさ」
 嬉しくないほど貰えるなんて悩みは僕には無縁だ。
 正直、今日だって僕自身が貰ったのは『義理よ!!』と肩を怒らせて押し付けてきたアスカが1個と(後で3倍返しを要求するのが狙いだろう)、『…あげる』とそっけなく置いてすたすたと去ってしまった綾波の1個(アスカにつきあわされて買ったのかな?)だけ。世間で云う“バレンタインデー”ってものとはかなり違うとは思う。
 でも、それでも今日って日に手ぶらじゃないっていうのは結構嬉しいもんなんだけど。(アスカのは後が恐いけどね…)
「そうじゃなくて。シンジ君はくれないの?」
 思わずジュースにむせて咳き込みそうになる。
 …何でだよ。
 空腹な上に嫌なことを思い出して、不機嫌な余り手近な僕に絡んできてるのかと思って、思わず内心で突っ込む僕に反して、カヲル君は
「くれないの?」
 ベンチの背に凭れたまま小首を傾げ、だめ押しのように云う。
「何で、僕がカヲル君にあげるんだよ」
 そう云うと、逆にカヲル君に『あれ?』と心底意外そうな顔をされて、僕は思わず声を強めていた。
「お、女の子じゃあるまいし、何で僕がカヲル君にチョコをあげなきゃいけないんだよ!」
 僕が重ねてそう言い切ると、ふぅん、と赤い眼が細められる。
 そうだよ、僕は女の子じゃないんだから。
 そもそも、なんで僕に期待するわけ?

 少し大きな声になってしまったせいで何となく気まずい気がして、黙々と僕はアイスを口に運んだ。一口タイプのアイスは色んな味がアソートになっていて、中にアイスと同じ味のフルーツとかが入ってる。値段の割に味がいいそれは僕の定番だったんだけど、食べるものがあってよかった。だって、何か食べてたら口をきかない口実になるし。
 けれど、話もしないで食べているだけに、幾つもあったカラフルなアイスはあっという間に数が少なくなってきた。
 そういえば、時間潰しにつきあったお礼のオゴリとはいっても、買ってくれたカヲル君に一コもあげないのはなんだかなぁ。
 付属のピックでころころ転がるアイスをつついていた僕は、残った幾つかの内の一つを突き刺すと、カヲル君に差し出した。
「何?」
「――お腹空いてるって云ってたじゃない。あげる」
 そ?、と小さく笑むと、カヲル君はぱくっとアイスを食べた。よかった、素直に食べてくれたところをみると、気まずい雰囲気もこれで少し解消かな。もごもごと口を動かしてるカヲル君に、僕はちょっとだけ安心した。
 でも。
「…あれ、チョコ?」
「え?」
 よく聞き取れなかった僕が聞き返すと、
「ホラ、チョコ」
 カヲル君がぺろりと出した舌先に、溶けかけたチョコレートブロックのかけらが。
 もしかして、さっきのアイス?
「ねえ。もしかして、これって意味あり?」
 赤い瞳が、物凄く意味深に輝いて、口元がきゅっと片方上がる。
 うわ。
 なんか自分でも今一瞬で血圧が倍になった気がする。
 その表情は、カヲル君が時々見せる定番の表情だったんだけど、多分実際にはあんまり見た人はいないんだと思う“素の顔”だった。そして、僕はカヲル君のその表情を、普段は結構気に入っていた。なぜならそういう顔をする時は、大抵カヲル君が本当に楽しんでいる時や本当に嬉しい時だったからだ。でも、何で今そんな顔になるんだよ!
「…ぐっ、偶然だよ!」
 僕はいささか焦ってそんなことを口走る。
 それに対するカヲル君の返事は『そう?』と素っ気無さそうな言い方なのに、語尾が微妙に上がってるせいか、僕にはそれだけには思えなくて。だって、なんだか赤い眼が笑ってる気がする。口元も笑うのを堪えてるみたいに見える。口の端が上がってる!――含みを感じるのは気のせいじゃないはず。
「偶然だっていったら偶然なんだよ!」
「はいはい、偶然ね。判った判った♪」
 ぽんぽん、と白い手のひらが僕の頭を軽く叩いて、彼が立ち上がった。
 何、その余裕な態度!?
 さっきまで子供みたいに思いっきり拗ねてたクセに!
 おまけに凄い子供扱い。年だって1コしか変わんないクセに!
 カヲル君はと云うと、まるで猫がするみたいに軽く伸びをしてる。そんな態度がごく親しい相手にしか出さないものだと充分判ってても、その異様に機嫌がよさげな様子がなんだかひたすら癪に触る。思わず白いセーターの背中を引っ付かんで力任せにひっぱると、
「うわっ!」
 華奢な体が後ろに泳いで、カヲル君が驚いたように振り向いた。
「…シンジくーん?」
 セーターを掴まれたままの不安定な姿勢で体を捩ったカヲル君が、放してくれといわんばかりに声をあげる。
 それに構うことなく、僕は睨み付けるようにして小さく怒鳴った。
「――いい? 絶対絶対ぜ〜〜〜〜っったい! 偶然だからね!?」
 我ながらムキになってると、頭の中でもう一人の僕の声が囁いてる。単なる偶然ならこんなにムキになる方がおかしい。逆に変に思われるだろう、って、落ち着くようにと諭すけど。

 でも。
 でもでもでもでも。

 なんだかこれじゃ僕がカヲル君に告白でもしたみたいじゃん!
 断じて告白なんかじゃない。僕はお腹が空いたっていうカヲル君に同情しただけなんだから。
 僕はれっきとした男なんだから、バレンタインにチョコをあげたりしないんだってば!
 女の子じゃないんだから!

 僕が怒鳴るなんて滅多にないせいか、カヲル君はちょっと驚いたようだった。
「100%偶然なの。分った?」
 上目遣いにちょっとにらみつけてさらに念を押すと、カヲル君は一瞬呆れたような顔をして、ふうん、と鼻を鳴らした。
 …う。
 勘違いを訂正しようとムキになったものの、そうやって実際に呆れたような顔をされると、自分のとった態度がかなり変な気がしてくる。うう…、こー、さらっと流した方がよかったんだろうか。でも、さっきのカヲル君の態度や表情を思い出すにつけ、やっぱりとことん訂正しておかないといくらでも好きに解釈されそうな気がしてならなかった。

 そんな僕をどう思ったのか。
「…分ったよ。100%、偶然だね」
 やれやれ、という感じでカヲル君が呟く。

 (あっ、なんか今、仕方ないなーとか思ってる?)

 そう感じてしまうと、やっと認めさせたのになんかちっとも嬉しくない。
 た、確かにちょっとムキになり過ぎたのは事実だし、そんな大騒ぎすることでもないんだけど。
 なんだか凄く呆れられてるのかもしれないけど、これ以上何か言っても余計にムキになってるようにしか聞こえないだろうし、何重にも勘違いを訂正して偶然だと判って貰えたことでよしとしよう。
 そう自分を納得させて、僕はやっと掴んでいたセーターを放した。

「ひどいな、セーター伸びちゃったじゃない」
 背中に手を回したカヲル君が『気に入ってたのに』と、僕のひっぱった箇所を確かめて云うのを聞かない振り。だってカヲル君が悪い。人をからかったりするからだ。そりゃ、僕も力任せにひっぱっちゃったけど。そのセーターはカヲル君のお気に入りで、僕の知ってる中でも一番彼に似合ってたけど。カヲル君は肌が敏感で安物のセーターだと被れるから、これもシルク混だとかで結構高かったのも知ってるけど。
 …二度と着れないほど伸びてるわけじゃないもんね…。
 カヲル君がこっちをじっと見下ろしてるのも気配で判ってたけど、絶対に謝らない!と心に誓っていた。僕はカヲル君の無言の抗議を無言で跳ね返して、ベンチに置いたままだったアイスを食べる。
 無言の、駆け引きしてるみたいな数瞬。
 ちょっと気が引けるけど、謝らないったら謝らない。
 残りのアイスは一瞬でなくなった。あんなに熱かったホットレモンは2月の寒さにぬるくなり始めていた。

 ふと、立ったままのカヲル君が、ポケットに手をつっこむのが視界の端に映る。しなやかな手が何かを取り出した。何か、小さなもの。それに気を引かれたのは、カヲル君はあまりそういったところにものを入れない人だったからだ。
 かさ、と小さなそれを白い指先が剥く。…何かのお菓子みたい。
 ひょい、と手から缶を取り上げられる。
 強く握ってなかったせいか、その缶はまるで手品みたいに僕の手から抜け出した。あんまり鮮やかに取り上げられたので、僕は一瞬反応ができず、ただ視線だけがつられたように缶と白い指を追った。白くて細い器用な指が、小さくゆっくり缶を揺らしてる。そして缶の向こうに見えるカヲル君の顔は首が傾げられて、今にもなにか言いたげに片方の口元が少しだけ上がっていた。
「…何?」
 あ、流石にセーターの件は彼を怒らせたのかな、と思って少し怯んだ僕に、カヲル君は光の強い眼を細めて意地の悪そうな笑みを投げてくる。一瞬、謝る言葉が口をついて出そうになる。だって、こんなに意地が悪くても、カヲル君は滅多なことでは本気で僕に怒ったりしなかったし。カヲル君はあんまりものに執着しない人だけど、ものを大切にしない人ではないから。
 それを喉元でぐっと堪えると、自然に少し眉が寄った。夕暮れの雲一つない空を背景に、銀色がかった鳩羽色の髪の隙間から星が光っているのが透けて見え、それに気を取られた一瞬、僕のホットレモンの缶が彼の指からするりと滑り落ち、地面にコーンと高い音を立てて転がった。
「…ちょっ、何するんだよ…っ」
 足元に転がった缶から流れ出る液体を避けようと僕は思わず足を引き、抗議の声を上げてカヲル君を振仰いだ時。
 カヲル君が反対側の指先で摘んでたものをぽいと口に入れる。空いた両の白い手が僕の視界の両端を横切って。次の瞬間、くい、と頬を挟んだ。

 暮れゆく空はとんでもなく透明なラベンダー色で、僕は急に遠近感を無くす。

 (――はい?)

 なんで、ラベンダー色と鳩羽色が視界一杯にグラデーションを起こしてるんだろう。

 僕の最初の思考は、今の状況を完全に受け取り損ねていた。
 しかも、なんか頬が冷たいし。
 (つまりそれはカヲル君の手ってこと?)

 唇がひやっとしたと感じたのはほんの最初のうちだけだった。
 すぐに、酷く熱い感触が滑り込んできたからだ。
「……ッ、ン…」
 無理に熱い飲み物を含んだ時のように、僕は鼻を鳴らした。
 熱い感触は、僕の舌の上でさらに広がった。
 
 喉を滑り落ちていく熱い感覚に、僕は思わずカヲル君のセーターを掴んだ。はぁっ、と辛うじて息を吸い込んだと思う間もなく、また熱いものが僕をさらにかき回していく。座っているのになんだか力が入らなくて、緩みがちになる手でやっと掴んだセーターだけが頼りのような心もとなさが増していく。

 ぴちゃ、と、微かな濡れた音で思い出したように、僕はいつの間にか閉じていた眼を開いたのだと思う。
 けれどそれは一体僕にとって何かの役に立ったんだろうか。
 だって、目蓋を薄く開いたその途端から、カヲル君の白い肌と、鳩羽色の髪と、薄く開かれた赤い瞳とが飛び込んできて、あっという間に僕の視界一杯を占拠してしまった。

 つまり、僕を散々にかき回してるのはカヲル君の舌で、
 おまけに酷く熱い何かすら含まされてて、
 それが僕の中で化学反応を起こしてるみたいに溶け出してて、

 含まされた熱で逆上せそうなアタマでそれだけをようやく理解した僕にお構いなしに、カヲル君は小さく唇を離したかと思うと、僕がほっとする間もなく今度は角度を変えてまた触れてきた。ほんの僅か生まれた隙間も、カヲル君の白い頬がうっすらと赤くなっていることに見とれてしまって、成す術もなく、僕はまた彼の熱を含まされる。
 (熱い、ってば――)
 酷く柔らかい感触が同時に酷く熱くて、僕は確かにベンチに座ってるのに、いっそどこかに墜落しそう。
 カヲル君は落ちそうな僕を引っ張りあげるみたいに、ベンチに片膝で乗りかかってきたけれど、助ける振りしてさらに深くまで侵入してくる。まるで携帯アプリのオセロ対戦の時に僕の黒を一枚残らず白にひっくり返してくる時みたいに容赦がなかった。
 含んでいた熱いものが小さくなっていくにつれて、カヲル君の舌は少しづつ温度を下げていくようだった。そして、温度が下がるにつれて僕は、熱いと思っていたそれが本当は甘かったのだということを教えられていた。緩く探られるたびに口一杯に広がる甘さに、相変わらず僕は落ちていく感覚に悩まされたけれど。

 最後に、唇で僕の下唇を挟んだ後、ようやくカヲル君は唇を離してくれた。
 額を寄せるように覗き込んでくると、言葉を見失った僕に、彼はまだ捨てずに持っていたそれを握らせる。
 手の中で、黒っぽいのと白っぽいのとが重なったナイロン紙が、カサ、と音を立てた。
 チロルチョコ。…の包み紙。

「――僕のは、意味アリだからね」

 こんな時にさえにっこりと極上の笑みを投げてくるカヲル君は、それ以上何も云わなかったんだけど。
 何でそんなににっこり笑えるわけ!?
 余裕ありげな感じが癪にさわる。悔し紛れに悪態をつこうにも、僕の口はまだカラメルに占拠されていたから、僕はせめてもとカヲル君を睨み付けた。

(ホットレモン、まだ半分残ってたのに!)
(意味アリとかいいながら、チロルチョコってあんまり安くない!?)
(普通、義理でも最低ラインってあるよね!?)

 カヲル君は、心の中で悪態の予行演習を始めた僕を見下ろすと、子供にするみたいに僕の両頬をむにっと軽くつねった。

「400%、意味アリだからね」

 カヲル君は僕を見下ろしたまま、光の強い眼を楽しげに眇めて口元をきゅっとあげて笑う。だから、その顔されるとなんだかヤバイんだってば。その眼に、僕はシンジ君みたいに意地っ張りじゃないからね、と云われた気がしたのはきっと気のせいだ。絶対気のせいだ。

(………チロルチョコの400%なんて、まだまだ全然安いじゃん………)

 …気のせいでなくちゃ。




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postscript

うーん、シンちゃん、我ながら君の抗議すべきポイントはそこじゃないと思う(笑)
こいつら、この先どっちに転ぶんでしょうか〜? どっちに転ばすのが愉しいかな〜?(私が<鬼畜)
(書き足してくどくなってないといいんだけど。)