さくら、さくら (1)





 暦の上だけの春がずっと続いて、ようやく少し暖かくなったと思えたのは、四月を幾日か入った頃になってからだった。それでも朝夕は冬並みに冷え込んで、すっきりと春らしさを感じられない、だらだらと続く縋るような冷気。いつになったら解放されるのか…いい加減、冬物のジャケットを着続けるのにうんざりするほどだ。
 暖冬といわれた年明けから二月の後、帳尻を合わせるように三月の末まで冬ほどに冷え込んだせいか、気象庁の開花予報の日を大幅に過ぎても、まだ蕾は固かった。
 いつもならとっくに満開になっているはずの櫻も、今年は未だに寒さに震えてるのだろうか。
 ……僕のように。



さくら、さくら



 町外れの大きな古い家には、ひときわ古い櫻の大木があって、そのせいだろうか、そこは「櫻屋敷」と呼ばれていた。
 「屋敷」というと聞えはいいが、長く住む人もいないために、入り口の格子戸のすき間から見える庭は雑草が伸び放題だ。見るからに年月を経た建物は大正初期のものらしく、和洋折衷の外観が不思議と懐かしささえ覚えさせる。最低限の管理はどこかの不動産屋がやってはいるのだろう、窓を覆う雨戸や屋根などは眼に見えて痛んでいる様子こそないが、それでも無人の家屋独特のどこか空ろな雰囲気がありありと漂っていて――子供たちの間では、もっぱら「幽霊屋敷」で通っている。そのせいか、真偽の定かではない噂には事欠かない。例えば、この町でも一番綺麗な花房を山と咲かせるのに、何故か花が咲くのが一番遅くて、それは昔あった殺人事件の被害者がその櫻の根元に埋められていた呪いだとか何とか。

 いつものように裏門の前に立ってはみたが、鍵など持っている筈もない。
 ここは誰とも知らない他人の家――もしくは久しく人の住まない空き家?――で、シンジは単にここを限りなく逃げ場所に近い遊び場にしているだけの子供だった。
 一つ息をついて、何となく辺りに視線を走らせた。櫻屋敷の塀の周囲も敷地の一部らしく、この古めかしい家は他から1軒だけ離れて建っている。誰かに見られるほど人目がある場所でもないのはわかっていて、いわば気持ちに勢いをつけるための仕草なのだが、欠かすことは躊躇われた。誰もいないことを確かめて、肩から鞄を下ろすと、勢いをつけて塀の向こうに放り込む。放物線を描いて塀を超した後、どさっと音がするのを聞き届けると、裏門に近い電柱を使って、今度は自分が塀を超えた。



 その年齢にしては痩せぎすの少年ではとても抱えきれないような太さの幹は、人づてではおよそ百年近くは経っているらしい。
 噂は時として事実を含んでいたりするもので、確かにここの櫻は、この町でも毎年咲くのがひときわ遅い。けれど噂は同時に無責任なもので、その櫻の木の開花が遅い一因はそれが枝垂れ櫻だからで、公園や学校などで一般的に植えられている染井吉野に比べれば、それも当然の話だった。それにこの櫻屋敷は町の高台にあって、夜は山からの冷気で結構冷え込むから、蕾が膨らむのが遅くても仕方がない。結論としては、呪いなどと云うのは無責任の極みだった。

「こんにちわ」
 古く大きな櫻に歩み寄ると、シンジは小さく声をかけた。
 一昨日からようやく春らしい気温になっていたせいか、ふっくりとほころびかけた蕾を華やかに散らしている枝が微風にそよぐ。まるでシンジに挨拶を返すかのように。
 ものを言わない樹に話しかけるなど馬鹿馬鹿しいといわれるかもしれないが、いつもそうしていた。何故かシンジにとっては、この庭の主はこの櫻だという気がしていたからだ。庭の主に声をかけて、一時この場に留まることを許してもらう――そんな気がしてならない。それはこの無人の家の荒れた庭を支配する櫻への礼儀のように思っていた。
 鞄を根元に置いて抱えきれないほど太い幹の表皮を撫でると、かさりと乾燥した感触が手の平を慰める。そのまま抱き締めるように幹に手を回して、深く樹の薫りを吸い込んだ。樹木特有の固く青い匂いに混じって、ほのかな甘い薫り。その甘さは、いずれ咲く今年の花の前触れか、もしかしたら去年の花の記憶のせいだったかもしれないが、シンジにはどちらでも構わなかった。
   ふぅ…
 やっとまともに息ができたような気がして、吸い込んだ息を大きく吐くのにつれて体から何かが抜けていく。無意識にまとっていた緊張が解け、母親に甘える子供のように、幹に沿って蹲る。鞄の中には適当につめこんだ着替えとミネラルウォーターのペットボトルだけが入っていて、適度なクッションだ――そのまま枕代わりにして根元に体を伸ばした。
 日はまだ十分に高く、風もまだ冷たさを取り戻していない。
 閉じた目蓋の裏を赤く染める日の光と、やんわりと体を暖める大気に意識を投げ出した。


 何もかもがわずらわしく、何もかもがどうでもよかった。
 ただ、放っておいて欲しい。
 望むのはそれだけだった。

 年に不似合いなシンジの望みはいつも、半ば叶えられ、半ば潰える。
 十四歳という年齢は、周囲にとっていかにも危なげに見えるのか、野放しにはできないと子供達を学校という檻の中に隔離して大人たちは安堵する。けれど、隔離された子供達はまたそこでそれぞれに集団を作り、結局はまた小社会が構成されて――常に、はみだす者はなくなりはしない。はみだすことの善悪はともかく、常に端数が発生するのは、それはすでに必然とも言える。この世界は砂糖菓子で出来てはいないのだから。
 そう、そしてシンジ自身もまた、常に「はみだす者」だった。
 はみだすといっても、別に成績が悪いわけではない。席次は常に上の下から上の中あたりをうろうろしている。ただそれは授業中友達同士内職に勤しんだり、こっそりメールのやりとりに夢中になることがない分、授業を聞く以外他にすることがないからで、課題を常に丁寧にこなすのも家にいても時間を持て余すからに過ぎない。特に勉強が好きなわけでも、勉強しようと意識してやっているわけでもなかった。
 では素行が悪いのかというと――時折こんなふうにふらりと学校をさぼることはあっても、決して教師の目につくほどではないし、他人に対して攻撃的だったり反抗的だというのでもない。繁華街で喧嘩をしたり面白半分に万引きを働いたりという手合いとは明らかに違う。
 強いて言えば、本人は決して望んだわけではないのに黒い毛で生まれたために、白い毛の羊達にはどうしても最後の部分で馴染めない…というのが一番近いかもしれない。
 その「最後の部分で馴染めない」微妙な差が、シンジに集団生活を無意味で厭わしく感じさせもし、なおかつ――どこかで自分の生命力を他人のそれより希薄に思わせてもいた。
 ただ、黒い毛の羊と白い毛の羊の何がどれだけ違うのかは、当のシンジにも判らなかった。


  時折。
  おぼろげに。
  …どこかに消えなければ、と思う。

  生きていても何もない。
  これまでも何もかなった。
  だからこの先何かが変わるとも思えない。

  時に呼吸をすることにさえ緊張する。
  善良な担任教師に
  返事をすることさえ至難な時がある。
  人の多いところへ行くと
  頭痛と吐き気が込み上げてくる。
  できれば誰にも知られずにひとりでいたい。
  誰にも近寄られたくない。

  そんな自分は、
  きっと間違えてヒトに生まれただけで、
  本当は何かの樹だったのではないだろうか…


 目蓋を赤く染める日の光が疲弊した心を癒してくれるのは、植物が光合成をしているのと同じく、シンジにもそれが必要だからだという気がした。
 背中にあたる地面のひんやりとした感触が懐かしいのは、本当はここから生まれたからではないのか。
 何故なら、シンジは何かの間違いで人の姿をしているだけなのだから。

 ――このまま、土に沈むか樹の幹に巻かれてしまえれば、いいのに――

 日差しに染まって、髪が温かい。茫洋とした空気。清しい樹木の匂い。
 覚えていない母の顔を、朧げに思い出せそうな気がする。

 永遠に今が続けばいいと願った。







 ――びしゃ!

「うわぁっ!」
 いきなりの冷たさに驚いて、眼を開けようとしたシンジの顔に、冷たい水がさらにふりかかる。眼が開けていられない。
「ちょっ、な、何っ――」
 跳ねるように体を起こし慌てて手で顔を拭うが、顔だけでなくシャツも体に張り付く感じで、随分濡れているらしい。水の降ってきた方に顔を向けると、眼に飛び込んでくる人影。管理人にでもみつかったのかとぎょっとしたのだが…
「…何してるんだい? それは、僕の櫻だよ」
 え?と、降ってきた言葉に、咄嗟に返す言葉がなかった。僕の櫻?――僕の?
 空をあおぐ形のシンジには、天気の良さも手伝って相手の顔は逆光になってよく見えない。でも、それが大人ではないということは、細身のシルエットだけでも見て取れた。声も、決して子供っぽくはないが、大人の男の低い声というものではなかった。
 空になったガラスの大ぶりなタンブラーがその相手の手にあるのを見て、どうやらそれで寝込んだところに水をかけられたのだと判る。
「君、誰さ?」
 彼は重ねて問うてくるが、ぱきぱきと棒でも折って投げるような言葉遣いに、さすがにシンジもムッとした。顔を見てやろうと思ってなおシルエットを仰視すると、眩しさに助けられて、自然と睨むような顔付きになる。眼が慣れてくるに従って、声の主が自分とそう変わらない年齢の子供だというのが判って、思わずホッとすると同時に、急に腹が立ってきた。
「…君こそ、誰だよ。“僕の櫻”って、どういう意味」
 これまで、相手が大人であれ子供であれ、初対面の人に向っていきなりそんな風な口を利いたことなどなかったが、べったりと胸元に張り付くシャツの濡れた感触と、自分にとっては誰にも知られたくない秘密を見咎められたことに対するばつの悪さ、そして、無防備に寝込んだところを見られた気恥ずかしさといった事が、普段よりもシンジを雄弁にさせていた。――全くもって、珍しいことだったが。

 睨み付けているうちに、その少年が日本人ではないらしいことがわかった。顔こそよく見えないが、シルエットの頭をふちどる薄い色の髪に、タンブラーを持つ手は逆光でもはっきりと判るほど白い。いきなり投げつけられた言葉は流暢な日本語だったが、声音はこれ以上ないほどそっけなかった。
 こんな奴に、なんで僕と櫻の時間を邪魔されないといけないんだ?
 しかも、頭からシャツまでびしょ濡れにされて。
 ここは空家なのだ。そして櫻はその空家の庭に立っている。確かに櫻はシンジのものではないが、何年もずっとここに通って来ていたシンジにとっては、色彩を持たないような生活の中で唯一の執着を持つものであり、また、誰にも侵されたくない一種の聖域のようなものだったのだ。そのせいか、まるで自分の部屋に土足で踏み込まれたような気分で、腹立たしさを抑えることができなかった。

「不法侵入の割に、大層な口をきくね、君は?」
 平べったい口調の言葉は、シンジの弱味を真正面から突いてくる。
 不法侵入…どんな理由にせよ、事実に違いない言葉を突き付けられて、途端に、ぎくっと体が小さく竦む。
「その櫻は僕のものだよ。その根元で知らない奴が勝手に寝こけてれば、名前を聞くくらいはしたって不思議じゃないはずだ」
 そう――そうだ、シンジは別にここの所有者というわけではないし、あらゆる意味で関係者でさえない。勝手に塀を乗り越えて侵入しているだけの立場だ。正当な所有者か、あるいは管理者に警察につきだされたとしても文句は言えない。だが、それは眼の前の少年だって同じではないのだろうか。

 同じことを言うのが大人なら――それが正当な権利や義務かはともかくとして――素直に謝ってそそくさと逃げ出したのだろうが、相手がどうみても自分とほとんどかわらない年齢で、しかも水を浴びせられた挙句に櫻の所有権を主張されたのが癪に触った。常にない雄弁さ以上に珍しく、見知らぬ相手に対して敵対心が沸き上がっている。精神安定剤がわりにここにくるシンジにとって、この櫻は特別な意味を持っていた。いわば母親の胎内にも似た回帰を誘われる、唯一本当の呼吸ができる場所。僕のものだといわれても、はいそうですか、と聞けるわけがない。
 毎年淡い色の花が咲くのを楽しみにしているし、春だけでなく四季を通して何度もくり返し通ってきた。その間に彼を、この家はもちろん、近辺で見かけたこともない。彼もこの櫻を気に入ったのかもしれないが、所有権を主張するなんて、この櫻に対して厚かましいにもほどがある。
「だから、どうしてこの櫻が君のものなんだよ! ここは僕が生まれるずっと昔から空き家で、誰も住んでないってことくらい、この町の人なら誰だって知ってるんだよ!?」
 誰も住んでいなくても誰かの所有物であるのは判っているが、塀の外で覗ける電気メーターだってこの前来た時も動いていなかったし、表札すら出ていない、それほどに特定の人のにおいを感じさせない場所。そんな奇跡のような空間なのに、誰かがそこを所有していると口にするのが我慢ならなかった。

 思わず大きな声を上げたシンジに対し、その少年は向けられた強い感情をまるで意に介さず、それが百年も前から決まっていたことのように言い放った。
「これまではどうだか知らないけどね、去年、僕が曾祖父から相続した。だから僕の家と櫻だ」
 醒めたものいいはまるでセラミックナイフのような歯切れの良さだったが、そのことよりも、その言葉の内容に思わずシンジがポカンとする。
  そうそふからそうぞく。
  相続?
  この櫻を?――正確には、この櫻のある家を?
  この少年が?…どう見ても未成年の。
  相続って、自分と同じ年頃の…つまり「子供」でもできるものなんだろうか?
「だっ…て、表札だってない――」
 やり場を見つけられない当惑が、自然とシンジの声を細くする。
 そんなシンジの当惑が声だけでなく顔にも出ていたのだろうか。少年はいかにもめんどくさそうに、そんなの持ち主の勝手だろう?と、にべもない。
「名義の変更もとっくに済んでる。僕の家で、僕の庭で、僕の櫻だ。理解したかい?」
 一方的に進んだ状況に半分以上はついていけなかったものの、ようやく事情が飲み込めてきた。この家に新しい住人ができた(しかも正式な所有者だ)ということなのだ。

 それはもうこの櫻に逢いに来ることができないということ?
 櫻に逢えなくなる、それはシンジにとってどうしても認められないことなのに。

 文句を言うだけ言ったらしい少年が、自分を見上げるシンジの呆けたような表情に小さく鼻をならすと、シンジを置きざりにすたすたと歩き出した。そのことに、シンジはさらに唖然とする。
 確かに不法侵入はいけないことだけれど。
 怒られるのは仕方ないにしても、いきなり水を浴びせるというのはあんまり酷いんじゃないだろうか。
 それに、相続したのは去年だっていってた。でも僕はそのずっと前からこの櫻に会いに来てた。確かに所有権って意味では僕のものじゃないけど、こんな奴より僕の方が、ずっとこの櫻を大事に思っているんだ。
 形だけの所有権なんて認めない!

 シンジの中で、これまで感じたことのない衝動が膨れ上がっていた。

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postscript

うわー…短い上に超時期外れでサーセン…しかも続きマス… |||||orz|||||