銀兎文庫::novels1
「誕生日のプレゼント、何がいいかな」
さしむかいでシンジの作った夕食を食べながら、シンジがカヲルに話し掛けた。
みょうがとわかめとたこの酢の物を口に運んでいたカヲルは、もぐもぐと口を動かしている。こくっと呑み込んで、不思議そうな顔をする。
「誕生日?…僕の?」
カヲルは、本来かなり少食だった“オリジナル”よりも食欲は旺盛だ。普通の子供より食べるということではないが、あまり好き嫌いもないようで、出されたものはきちんと食べる。その理由がシンジがいつもちゃんと食事を取るようにとうるさいせいなのか、それともシンジが作った食事だからかは微妙なところだが。
「だってもうすぐ13日だし ―― あ、こら、迷い箸はお行儀悪いよ、カヲル君」
「はーい」
お皿に盛られた料理を箸先をさまよわせて選んでいたカヲルに、しつけも自分の責任と自負しているシンジがたしなめると、悪びれない呑気な返事が返ってくる。カヲルの箸がひょいとエビフライを取り上げて、ちょいとタルタルソースをくっつけると、自分の手元の取り皿に載せた。たぶん、同年代の子供よりはずっと綺麗な箸の持ちかたで。
2年前に初めて培養基から出されたカヲルを引き取った時には、彼は教育されているとは言えない状態で、箸はおろかフォークも満足に使えなかった。それどころか、ほとんど手付かずの野生児のような状態だったと思う。スプーンから始めた当時はかなり手こずったが、フォークを経て箸まで来た時は、几帳面なシンジが丁寧に教えた事と、カヲル特有の飲み込みの早さであっという間に使い方を覚えた。
だが、使い方を覚える事とマナーを実践する事は未だに少し別物のようで、カヲルは時々こうして怒られる。もっとも、カヲルは余り怒られること自体は気にしていないようだ。日々の会話のバリエーションとでも思っているフシがある。
いつもの食事風景。
カヲルはシンジの作ったものなら大抵文句一つ言わずに食べてくれる。何が食べたい?とリクエストを聞けば、先々週の金曜の肉じゃが、とか、先週の火曜のポトフ、とか、驚く程正確に日付けとメニューを並べて子供らしいおねだりをしてくれるから、シンジも嬉しい。おかげで以前よりもずっと料理のバリエーションが増えた。カヲルはどうしても肉類はあまり沢山食べられないようなのだが、それは体質的なもので嫌いなわけではなさそうだったり、酢の物や和え物など意外と大人びたメニューが好きだったりと、献立を考えるシンジの方も心得たものになっていた。
「もちろん料理も腕を奮うから、期待しててね?」
「うん、シンジ君の料理はいつも美味しいけど! 前に作ってくれた京風しゅうまいも作ってくれる?」
満面の笑みでカヲルが頷いてくれるので、シンジも腕の奮い甲斐があるというものだ。思わずシンジの方も笑顔になる。なにより、これは長い間欲していた家庭的な食卓なのだ。
「カヲル君、あれ気に入ってたよね。…あ、でさ、プレゼント何がいい?」
ほのぼのした気分に流されてうっかりと忘れかけた最初の質問を思い出し、シンジは自分の皿にエビフライを取り分けながら問い直した。内緒で用意してこのやんちゃ坊主をびっくりさせるのも捨て難いけれど ―― カヲルの驚いた顔は滅多に見れるものでもない。とても可愛いのだが ―― カヲルが今一番欲しいものをあげるという案もまた捨て難くて、散々悩んだ結果、今年はカヲルにリクエストを聞く事にしたのだ。カヲルが今欲しいものをあげられるのは今だけで、驚かすことならまた来年もできるのだから。
「 ―― いいよ、別にプレゼントなんて。シンジ君がお祝いしてくれるんなら、それだけで」
だが、カヲルは意外な程に気の無い調子でそういうと、もきゅもきゅとエビフライを味わっている。
それにカヲルの返事自体も、何故かいつもよりも少し躊躇うような間があったような気がした。
「えっ…ど、どうして? 何か欲しいものないの、カヲル君?」
いつものカヲルなら、こういう時に黙り込んだりしないのだが ――
プレゼントをいらないという理由が咄嗟に思いつけずに、シンジは困惑する。
カヲルは何を考えているのだろう?
もしかして、プレゼントを買うお金の事とかを心配してでもいるのだろうか。
人の3倍成長の早いカヲルは衣類もどんどん買い替えないといけないのだが、子供服は存外高かったりする。靴もあっという間に小さくなるので、2ヶ月ごとにはサイズが合わなくなるし。お陰でこの2年でシンジは簡単な裁縫ならできるようになっていて、時には自分の服をリフォームしてカヲルの服を作ったりもしている。カヲルは新品の衣類よりも、シンジのおさがりのほうが何倍も嬉しそうなのだが、シンジ本人は満足に新しい服を買ってやれない腑甲斐無さを自責していたりするのだ。叔父の家に預けられていた間、いとこのお下がりばかりだったシンジにすれば、新品の服にこだわるのも無理ないのかもしれない。
幾らゼーレとの契約で、毎月それなりのお金を貰っているにしても、いつ逃げ出さないといけなくなるか判らない生活だ。事実、これまでに2度、住居を変えたことがあった。シンジに初号機ごと逃亡されて世界的に面目を失ったとはいえネルフはやはり国家機関で、国内の銀行などにはとっくに手が回っている。カヲルとシンジの生活費は、定期的に玄関の新聞受けに封筒に入った現金が投入され、電話も特別なジャミングが施された携帯電話のみ、シンジ達からのゼーレへの接触は極力制限されていた(ゼーレからは常に監視はされているらしいが)。
そして逃げ出す時にはいつも慌ただしくて引っ越し荷物を作る余裕などないため、ほぼ体一つになってしまうのだ。持ちだせるのはせいぜい手許の現金と僅かな身の回りのものだけなので、いざという時の逃亡資金を常に残すためにも、毎日のやりくりは結構大変だった。
カヲルはカンが鋭いから、そういったシンジの苦労を察しているのかも知れない。
「誕生日は特別だから、何でも欲しいもの言っていいんだよ? そりゃ、余り高価なものは買えないけど…」
シンジが躊躇いがちにそういうと、カヲルはちらりと上目遣いでシンジを見遣って来た。
「…何でも? ホントに?」
「僕にできる範囲なら、何でもあげるよ。何が欲しい?」
一体何を要求されるかと思いながらも、なんでもしてやりたい気持ちに嘘はないので、シンジは請け合った。暫くカヲルは大きな赤い瞳でじっとシンジの顔を見詰めていたが、ぱっと箸でもう1つ海老フライを摘まみ上げると、
「やっぱり内緒」
と言ったきり、またエビフライに齧りついて、食べる事に没頭しようとする。会話が続かない ―― なんだかはぐらかしているともとれる様子だ。
「どうしてさ、何で内緒なの? 何が欲しいのか言ってくれないと、カヲル君の欲しいもの、あげられないよ?」
シンジにすれば、カヲルを喜ばせたいが故にリクエストを聞いているわけだから、お金の遠慮などしてほしくないし、欲しいものがあるならシンジの手で叶えてあげたいのだ。
それに、内緒というのは、欲しいものがあるけれどもシンジには教えない、ということではないか?
そう思い至ると、シンジもなんだかちょっと面白く無い。
子供のくせに、ご飯や洗濯など家事一切を初めとして、一体誰がここまで面倒みてるんだ!と、いつもなら決して出ない文句の一つも『少しくらい』言いたくなってしまうというものだ。
「カヲル君は、僕にお祝いさせてくれないの?」
わざと少し沈んだ声を出してそういうと、カヲルはおや?という風に片眉をちらりと上げてみせた。…どうやらバレてるようだ。カンが鋭くて早熟なカヲルには、こういったお芝居は通用しないのは分ってはいるが、シンジはなおもものいいたげにカヲルを見詰めた。ここで引いてしまうのもなんだかちょっと情けない気もして。
「…………じゃぁ、僕の誕生日に教えてあげる」
たっぷり2分程の沈黙の後、さも『仕方ないなぁ』というようにカヲルは口を開いたが、その答えは必ずしもシンジが求めていた「カヲルが欲しいもの」そのものではなく、いかにも折れて譲歩しましたと言わんばかりだ。本当に、こういうところが『まだ子供の癖に生意気だなぁ』とシンジは思う。それとも、子供だからこそ生意気なんだろうか? いずれにせよ周囲に気を遣うばかりだったシンジの子供時分とは随分違って、シンジには言いたい放題のカヲルはそれなりに育っているということかもしれない。だとしたら、それを一概に生意気だと怒るには忍びない…。
そんな風に、数瞬の間にシンジの頭の中を幾つかの考えが過ったが、やはりシンジはカヲルに弱い。
「でも、何が欲しいか判らなかったら、用意が間に合わないかもしれないじゃないか」
ため息混じりにそういったのだが。
「それは絶対大丈夫だもん」
やけに自信ありげにカヲルが断言するのにシンジが問い返す間もなく、カヲルが畳み掛けるように「ご飯冷めちゃうよ?」と言うので、シンジはいくらか釈然としないながらも再び食事を取り始めた。
結局その話はそれきりで、後からシンジが幾ら聞いても「誕生日に教えるから」と言われるばかりで、カヲルが欲しいものが何かは判らず終いだった。元使徒で元チルドレンのこの子供は、まだ11才の外見(しかも実際時間にすれば生まれてまだ2年くらいしか経っていないのだ)に似合わず、一度言い出したら聞かない所を持っていて、それはシンジがどれほど(泣いて)脅しても宥めすかしても太刀打ちできない程で、無理に聞き出すなどは出来ない相談なのだった。
◆
去年も同じように誕生日を祝ったのだが、カヲルはまだまだそういったお祝いやそうしたいという気持ちの意味を理解してなかったようで、シンジが張り切ったのと反対に、当のカヲルは至極あっさりしたものだったことを考えると、それでも「進歩した」と言えるのかもしれない。
考えてみればまだ2年だ。引き渡された当時カヲルがすでに5才の外見を持っていたことと、渇いた砂が水を吸うようにどんどん変化していったからつい忘れてしまうけれど、本当ならまだ幼児といっても差し支えないくらいで…。
最初の半年はゼーレの施設に匿われていたが、その頃は本当に一時も眼が離せなかった。
何せ、最初の頃のカヲルはというと、まるで野良猫を馴らすような塩梅で、培養基育ちのせいか服を着るのを嫌がるし、食事は手掴かみ、お風呂は熱がって温度設定をよっぽどぬるくしてやらないとすぐにのぼせた。(反対にびっくりするほど冷たい水でも平気で浸かっていたけれど。)
『あの頃は、よく食べ物が合わずに吐いたりしたから、夜中もずっと起きてたな。よく発熱したし』
食事も、最初は今のように何でも食べられたわけではなかったから、素材には随分気を使った。培養基ではずっと液体に浸っていたせいか、いまでも乾燥には少し弱く、化繊の肌着は肌を赤くしたり。
それに最初の頃はオリジナルとは違って口数も酷く少なかったし、口調は平坦で表情も堅かった。カヲルの魂をサルベージしたとはいっても、3人めの綾波同様、記憶もほぼ戻らなかったようだ。幾ら外見は5才だったとしても、外見通りとはいかなかったし、なにより、培養基で育成中に機械的に与えられた情報がカヲルの中でバラバラの状態だったのだ。
眼に見えてカヲルが変り出したのは、引き取って4ヶ月を過ぎてからだった。まるでカヲルの中で準備ができたというように、それまで覚束なかった様々な情報が急速に繋がり出したように見え、シンジが教えることをどんどん吸収し、もともとそうであったであろう聡さでみるみる知識を増やして行った。
逃げ回りながらとはいえ、今ではほぼ普通と同じ生活ができる。
それはシンジの努力の賜物といえた。
『気分はすっかりお父さん、かな…』(いや、お母さんだろう。)
初めての逃亡時に、シンジは知らない内に引き離されるかもという不安で、夜はカヲルを抱いて眠った。その時味を占めて以来、シンジと一緒でないと寝ないと言い張るわがまま坊主は、今も同じベッドの中で安らかに寝息を立てている。
シンジの腕を当然のように枕にして眠っている様子は、まさに天使といわんばかりの可愛らしさだ。
『カヲル君も、小さい時はこんな風な顔してたのかな…』
ぼんやりと寝顔を見つめていると、“彼”の顔がだぶってみえた。
同じ顔、同じ髪。
赤い瞳もそのままで。
ふいに、3人めの綾波を避けていた事に対する後悔が押し寄せた。
あの時、綾波には責任の無い理由で彼女を避けたくせに、
今ではカヲルなしの生活なんて考えられない自分がいる。
『僕は、ずるい…』
このカヲルと、前のカヲル。
2人めの綾波と、3人めの綾波。
答えなどあるわけがないのに。
なくしたくない気持ちだけが、カヲルをここにつなぎ止めた。
―― 僕の手で死を望んだ最後の天使を。
「…、ん ―― 」
カヲルが身じろぎして、はっと、シンジは物思いから引き戻される。くすん、と小さく鼻を鳴らすようにカヲルが寝息を立てと思うと、眠ったままぎゅうっとシンジに擦りよってきた。それに少なからず気押されて、シンジの体温がわずかに上がる。カヲルの寝息がパジャマの薄い生地を透かして心臓の上に何度も触れる。まるで子猫が親に添うように無防備にシンジに預けきった、まだ小柄で華奢な体 ―― 11才の。
痛いような、熱いようなものが、シンジの胸元に込み上げる。
それは今の彼への感慨なのか、前の彼への憧憬なのか、シンジにも判らない。
白いほほも、幼いながらに通った鼻筋も、全ていつかは記憶の中のカヲルと重なるだろう。
僕は早くそうなって欲しいのか、それとも ―― ?
…答えなど、ないのだけれど。
◆
誕生日の朝、シンジはいつもより2時間も早く起きた。午前中にいつもの家事を終わらせて、午後一番に買い物をして誕生日用の料理とケーキを作る予定にしていたからだ。
いつも通りの時間に起きてきたカヲルは、朝食を済ませた後、居間でゲームに興じている。軽快な音楽とキャラクターの声に合わせて剣でモンスターをやっつける音が微かに響いてきていた。確か一昨日の夜あたりから手をつけたアクションRPGだが、すでに終盤にさしかかっているらしい。どれほど難しいといわれているゲームでも、カヲルにかかれば長くても3日であっさり全クリだ。それが使徒の能力なのかカヲル自身の特質なのかは判らないが、今プレイしているあれもきっと午後にはケリがついてしまうのだろう。
カヲルは平気で何時間でも連続でプレイするので、最初は眼が悪くなったらと心配していたシンジだったが、視力が落ちた様子はないし、今の生活では毎日気楽に外に遊びにいけるわけでもないので、今はもう好きにさせていた。
結局、誕生日まで内緒だといった日からカヲルはヒントさえ教えてくれず、起きてきた後何度か「今日は誕生日だから、欲しいものを教えてくれる?」と聞いても「夜にお祝いしてくれるんでしょ?その時にね」とにっこりされるばかりで、本当にお手上げだった。
『まったく、子供のくせにホント言い出したら聞かないんだから…』
もし夜になってから教えてもらっても、やっぱりカヲルの望みを叶えられなかったらと悩んだシンジは、保険をかけて別にプレゼントを用意するつもりでいた。午後に御馳走の材料を買い物に出る時に、この間から眼をつけてある腕時計を買おうと思っている。本当なら11才位の子にはもったいないような品物で、その分お値段もちょっと出費だが、せっかくの誕生日なのだから奮発したい。なにより、その腕時計は他の誰よりもカヲルに似合うはずだ。(カヲルの手首にはまだ大きすぎるだろうが。)
結局正午少し前に全ての用事を片付けたシンジは、まだゲームに没頭しているカヲルに声をかけると、生返事に近い声が返ってくる。まったく、普段は聡すぎていっそ生意気な程なのに、反面、こんな風にえらく子供っぽい所があったりする。
シンジは必要なものを書き出したメモをもう一度確認すると、誕生日祝いのための山のような買い物に出かけた。
◆
テーブルに並んだ料理は、全てシンジが腕によりをかけたものばかりで、特に真ん中に置かれた丸いケーキは、デコレーションも手掛けた力作だった。2本なのか11本なのか、それとも17本なのか、立てるべきキャンドルの本数に真剣に悩んだシンジが、キャンドルも装飾と考えようと結論を出したせいで、必ずしも年令に一致した数ではないが、細長く赤いキャンドルが8本、明るいオレンジの炎を点している。
去年と同じくセオリー通り、カヲルを着席させてから部屋の電気を消し、キッチンで火をつけたそれを運びテーブルの真ん中に据えた時、去年は無感心に近かったカヲルが今年は嬉しそうに歓声をあげ、それだけでシンジは報われた気持がした。
カヲルはリクエストした京風しゅうまいを嬉しそうに食べ、シンジにその出来を食欲で証明してみせたし、シンジがプレゼントした時計は思った通りカヲルに良く似合った。(やはりリストが余っていたが。)
「ねぇ、そろそろ…カヲル君の欲しいプレゼント、教えてくれる?」
綺麗に切り分けた、葡萄を飾ったケーキがあらかた片付いたのを見計らって、ようやくシンジは切り出した。
ケーキフォークを銜えたカヲルが、ちらりと上目遣いにシンジを見る。
「カヲル君、お祝いの時に教えてくれるっていったよね?」
カヲルには、日頃から約束を守るように云っているので、シンジは半ば確信的にカヲルの答えをさとした。今まで散々先延べされてきて、それならと、ささやかなお祝いのパーティのケーキを食べ終るまで待ったのだ。
本当は、カヲルにそこまで欲しいものがあるとは思っていなかったシンジだ。今の生活は、いかに表面を取り繕ってもまともな普通の生活とは言えない。それはつまり、学校に通ったり、友達と遊んだり、どこかに出かけたり、そういった当たり前の幸福とは無縁とも言える。シンジにはカヲルしかいない生活に不満はないが、カヲルは自分が望んでこの生活を始めたわけではない。むしろシンジの我がままと云う籠の鳥ではないのかという後ろめたさがある。
そのカヲルが望むものが一体何なのか ―― 正直シンジには想像もつかなかったのだ。
それゆえに、シンジは何としても知りたかったし、できる事なら叶えてやりたかった。
皿に残っていたケーキのクリームをフォークで綺麗にすくうと、カヲルはぺろっとそれを舐め、脇に寄せていた2種類の葡萄 ―― 皮を向いて薄くゼリーをかけたマスカットと巨峰のつぶを含んで味わうと、ゆっくりと飲み下した。
「約束、守ってくれる?」
カヲルはティッシュで口元を拭うと、ようやく口を開いた。
「 ―― 約束?」
「あの時シンジ君、“僕にできる範囲なら、何でもあげるよ。”って云った。」
「うん、云ったよ?」
「…今も? そう思ってる?」
存外熱心な口振りでそういわれ、えらく真摯な瞳で見つめられたので、一体何を要求されるのかと思いはしたが、カヲルにこれも約束だからと欲しいものを聞き出そうとしていたのはシンジ自身だ。それにカヲルは飛び抜けて記憶力がいい。何気ないシンジの言葉でさえいつも驚くほど正確に憶えているから、反対の事をするわけにもいかない。もともと反故にするつもりもなかったが。
「うん、僕にできる事なら何でもあげるって云ったね。ただ、あまり高価なものは買えないけど…って」
努めて明るくそういうと、シンジはまた口を噤んだカヲルに笑いかけた。
カタン、とカヲルが席を立ちシンジの側にくると、シンジの手を引いてダイニングからリビングの方に引っ張って行こうとする。それをいぶかしみながら、されるままにカヲルについてリビングの方に移動すると、カヲルがくるりと振り返った。
「あのね。僕の欲しいものは、お金で買えるものじゃないんだ」
シンジの手を握ったままで、カヲルは先を続ける。
「それに、シンジ君にしか叶えられない」
「僕にしか?」
うん、と頷いて、カヲルは一度俯いた。小さく息をつくと、再びシンジを見上げる。
「 ―― 僕の欲しいものはね。」
「…キスして、シンジ君」
◆
咄嗟にシンジはカヲルの云った言葉を理解できずに聞き返していた。
「 ―― っ…あの…それって…」
それがある意味酷く間の抜けた問いであるのをどこかで感じていながら、全く予想もしていなかったカヲルの“欲しいもの”に、まだどこかで聞き間違いかという気がしたのも事実だ。
だが、カヲルが再びゆっくりと繰り返したのは紛れもなく先ほどと同じ言葉で。
「僕は、シンジ君の、キスが欲しい」
カッと頬が熱くなるのを感じながら、シンジはその言葉をようやくまともに受け止め、次の瞬間には焦りと羞恥が混じった勢いで口走っていた。
「なっ、何云うんだよっ、カヲル君はっ!」
「シンジ君?」
「そんな、き、キスって、 ―― カヲル君は、キスがどういう意味か、まだ判ってな ―― 」
焦りまくって返した言葉は、次の瞬間、眉をひそめたカヲル自身にあっさり却下された。
「どういう意味かなら、判ってるよ。だからシンジ君に叶えて欲しいんだ」
自分が買い物に出ている間にテレビか何かで見たのだろうか、キスという言葉をカヲルが知っていたこと自体があまりにも想像の外だったし、なによりそれをシンジにして欲しいと云うなんて全くもって想像もしていなかったせいか、シンジはパニック寸前だった。
何を云ってるのだと怒るべきかカヲルの望みなのだから叶えるべきか、どうすればいいのかさっぱり判らないまま狼狽えるシンジに、腰にぎゅっと細い腕を回してカヲルが抱きついてくる。
「僕がどうしても欲しいものなんだよ?」
すでに頭は満足に回っていなかったし、幾ら前にカヲルとそういう事をした経験があるからといっても、それも随分前の話だ。まして、まるで子供がおもちゃをせがむように揺すられて、増々頭の中はぐるぐるとしている。
こんなカヲルにそういう事をするのはいけないんじゃないだろうか。
「シンジ君は、嘘つかないよね?」
すでに理性のゲージは振り切れて、それがいいことなのか悪いことなのかも判らないまま、シンジは曖昧に頷いてしまった。正直なところ頷いた直後に幾ら何でもやっぱりマズイと思い直したのだが、カヲルはすっかり叶えてもらえるのだと大喜びしている。そんなカヲルをよそに酷く複雑な心境のシンジだったが、キスと云っても欧米では親しい間なら挨拶として気軽に交わすものなのだから、思い切って額にでもちゅっとしてあげればそれで叶えられるのではないかと思い直した。
ところが、キラキラと瞳を輝かせながら、今か今かと期待しているカヲルの前髪を書き上げた途端、シンジがそれを実行する前に釘を刺されてしまった。
「額じゃなくて、ちゃんと唇のヤツだよ? 一瞬だけとかもナシだからね?」
どちらが大人なんだか判らないほど冷静な指摘をされてしまうと、シンジは最後の抜け道すら塞がれた思いがした。
「わかっ ―― 判ったから、カヲル君こそ、その ―― 、眼、閉じてよっ」
それで年上の威厳を保てるわけではないのだが ―― それにしても、何でカヲルはこんなに落ち着き払ってるんだ!? ―― 心臓が破裂しそうな程の緊張と、人前で裸になるほうがまだマシかもという程の羞恥に苛まれながら、シンジはなけなしのプライドでカヲルに言い返した。せめてその瞳だけでも閉じてくれないと、まともに顔を覗き込む事なんてできそうになかったせいもあるが。
ん、とかすかに肯定の頷きを返して、カヲルの光の強い瞳が閉じられた。最初にシンジを見上げた時のまま動きを止めたその姿は、まさにキスを待つ体勢そのもので、シンジはさらに頭に血が昇るのを感じながら、なぜこんなはめになったのかと泣きたい気持がした。けれど約束は約束で、カヲルは眼を閉じたままシンジの行動を待っている。シンジ自身が半ば無理矢理に聞き出した自覚もあるので、覚悟を決めないワケにはいかなかった。
思えば、自分から誰かにキスをしたことなど無かったかもしれない。
耳の中で跳ね続ける鼓動の音に、他は何も聞こえなかった。閉じられたままのカヲルの薄い瞼に、細く青い血管が透けて、睫が頬に影を作っている。頬に触れた方が、キスはしやすいものなのだが、そんな事にも頭が回らないまま、シンジは思い切って顔を近付ける。それに、頬に触れたらそれだけでどうしようもなくなって、キスなどできるとも思えない。きっと緊張の余り死んでしまうだろう。
そっとそっと、まるで吐息がかかっても乱暴だとでもいうほど慎重に、シンジはカヲルの唇に、自分のそれを重ねた。
唇が離れてわずかに3秒。カヲルがシンジを真摯に見上げてくる。その瞳は赤いルビーのように光を宿し、限界を突破して理性的思考がどこかに雲隠れしたようなシンジは、頭で考えることができなくなっていて、まともにその赤に魂まで焼かれてしまうような錯覚を憶える。
「…そうじゃなくて、もっとちゃんとしたヤツ!」
だが、開かれた唇からはごねるような言葉が滑り出た。
ちゃんとしたヤツ、と云われて、シンジは緊張のあまり目眩がしそうな頭でそれを2、3度繰り返した。
触れるだけのキスじゃなく、というと…
言われた言葉の意味を反芻した途端、あの夜『カヲル』に何度もされた、前後不覚になりそうな“ちゃんとしたキス”が突然甦って、シンジは一気に首まで赤く染まる。触れるだけではダメだというなら、カヲルが言っているキスは、もうそうとしか考えられない。
「〜〜〜〜〜な、何言ってんの、子供の癖に!?」
思わず出た言葉は、11才の子供のセリフに気圧されて情けなく声が半分裏返っていた。光る両の瞳から意識的に視線を逸らして軽く唇を噛む。第一、触れるだけのキスでも、シンジにすれば口から心臓が飛び出てしまうかと思う程の緊張と羞恥を伴う行為だったというのに、一体どんな不満があるというのだろう!?
「 ―― ふぅん。シンジ君は『僕にできる事ならなんでも』っていったのに、その言葉を守ってくれないんだ?」
急に耳に飛び込んで来たカヲルの、低く醒めた物云いにどきっとして、思わずシンジは頭一つ小さいカヲルを見下ろしてしまった。
「それがシンジ君の言う『大人』なの? 大人なら、自分の云った言葉に嘘をついてもいいんだね。」
カヲルの投げやりな口調に、ひやりとしたものが混じる。
「そ、…そうじゃ、なくてっ……!」
「それとも、僕とそういうことするのはどうしてもイヤってこと?」
これには、シンジもすぐには返す言葉がなかった。イヤというよりは、“してはいけないこと”の様に思うのだ。
そして同時に、何故こんな子供に脅されなければ(実際、ほとんど強迫じゃなかろうか?)ならないのだと思うと、その理不尽さにだんだん腹が立ってくる。“そういうことは子供のすることじゃない”という、至極まっとうな常識でこのわがまま坊主をたしなめないと、この先どんな事を言い出すやら。
「だから、そういうキスは、友達じゃない意味で好き合ってる人同士でするんだよ、カヲル君」
「…僕はシンジ君が好きだよ?」
だがカヲルは、急にそれまでの勢いをひそめて呟いた。こうやって体が触れあうほど近くにいなければ聞き取れなかったかもしれないほど小さく。気勢を挫かれてシンジは今にも言いかけていた“子供のすることじゃない”という言葉を飲み込んでしまった。
「シンジ君は、僕が好き? それとも、嫌い?」
「もちろん、カヲル君の事は大好きだよ」
それはシンジの嘘のない気持ちだった。これほど好きになれる相手はどこにもいないだろう。亡くした時には、体が半分ちぎれてなくなったように思った。なのに生きてる自分が不思議で ―― なくしたのは体の半分というより、魂の半分だったのだと思ったくらいに。
だからカヲルを取り戻せるといわれれば、それが悪魔との取り引きにだって応じただろう。
たまたま取り引きを持ちかけたのが悪魔でなくゼーレで、取り引きの代償が残った魂の半分の代わりに初号機の引き渡しだっただけで。
「シンジ君の“好き”は友達じゃない好き?」
咄嗟に、シンジは答えに窮した。
それはシンジにとって、無意識の内に遠ざけていた、開けてはならないパンドラの箱なのだ。
好きかといわれれば好きだといえる、けれど、友達以上かと問われて答えることにためらいがある。
カヲルには記憶があるのだろうか、それすらハッキリしないのだ。
色んなことが曖昧で、まだ自分でも、どうすればいいのか判らないのだから。
だから、適当な言葉が思い浮かばなかったのだが、
「 ―― 違うんだね。僕がシンジ君を好きだと思うほどには、シンジ君は僕を好きではないんだね」
シンジの混乱と懊悩を知ってか知らずか、問いに答えられなかった事で、カヲルは勝手に結論を出してしまう。その口調は、子供というには酷く醒めて、半ば諦めのような色さえ含んでいたが、シンジは云われた言葉に気を取られて、それ自体には気が付かなかった。
「っ、だから、そんなこと、言ってないだろ!? カヲル君のこと好きじゃなかったら、あんな…っ!!」
カヲルを取り戻せるならどんな代償でも払ってみせると思った気持ちは本当で、なのに当のカヲルにそれを軽んじられたようで、シンジは思わず声を荒げていた。母の宿った初号機を引き渡すということは、すなわち、父ゲンドウとの決別も意味すると云うのに。
このカヲルを元のカヲルと考えるべきなのか、それとも別人だと考えるべきなのか、まだ答えは出ていなかった。けれど、どこかでシンジは、この『生まれ直したカヲル』を自分に縛ってはならないという強迫観念のようなものを抱いているのだ。
それは長い間幼い子供の姿のカヲルを見てきたからかもしれないし、一度は自分の手で壊したものをまた元に戻そうという虫のいい身勝手さに思えるからかもしれない。もしくは、カヲルを育てるという行為でカヲルの気持をいつのまにか(それとも無意識のふりをして?)自分の上に繋ぎ止めてしまうかも、という畏れかもしれない。
それがエゴだということくらい判っているからこそ。
カヲルには、カヲルの意志で、これから先を歩いていって欲しい。
「じゃぁ、ちゃんとキスして? 僕が今一番欲しいものをくれるんでしょう?」
小さく溜め息が漏れた。
わがままなのか強迫なのかわかったものではない。
堂々回りの展開に、シンジもなす術をなくしてしまう。
『まだ早い、とでも云えばいいのだろうか?』
困り果てて、シンジは再度カヲルの顔に視線を落した。
見上げてくる大きな瞳は深い色をしている。一心に見つめる瞳が微かに揺れるたび、まるで猫のように、底の方できらりと光を閃かせて。
その時。
シンジクン、と、カヲルの唇だけが動き、我知らずシンジは呼吸する事を忘れ。
煌めく赤に幻惑されて、我知らず過去と今との遠近感を失った。
見上げる赤い瞳、
それはあの夜にシンジを覗き込んだ瞳と同じ赤で、
その額も顎の線も、求め合った彼と同じもので…
白いほほも、幼いながらに通った鼻筋も、全ていつかは ――
ひた、とシンジの手がカヲルの頬に添う。
求めてもらうことに溺れて、言葉さえろくにあげられなかった夜。
何度も好きだと囁かれて、長い指でくまなく触れられて、そら恐ろしい程の幸福に喘いだ。
与えられるキス、与えられる愛撫。
何もかも与えられるばかりで。
薄い唇は記憶の通りで ―― さっき触れるだけのキスをした時には、そんなことを思いだす余裕もなかったのに ―― 薄く開かれた隙間から半ば無意識にシンジの舌が滑り込むと、熱くて柔らかいそれがぴくりと震え、だがその後は従順に応えてきた。絡んだ舌をゆっくりと動かすと、どちらからともなく鼻にかかった甘い息がもれる。口腔を探るようにすると、まだ小ぶりな歯が綺麗に並んでいるのを、頭の隅で認識する。
カヲルの舌がシンジの舌の裏をくすぐるように動いて、頭がじんと痺れるような快感が首筋を駆け上がり、膝が崩れた。下から引き寄せるようにしがみつかれ、二人共に床に崩れるように座り込む。
はっと我に帰ったシンジの様子に気がついたのか、カヲルがそっと唇を離した。
自分のした行為の真意と是非を計りかね、シンジは酷く狼狽し、呆然となる。
ついさっき、「してはいけないこと」だと自分で怒ったばかりだというのに。
「…カヲル君は、まだ子供じゃないか…」
シンジが発した声は掠れて震えていた。それはカヲルに向けての言葉だったのか、それとも自分に向けての言葉だったのか、発したシンジにも判らない。シンジの薄いコットンのシャツを握る手は、いまだ小柄なシンジよりも少し小さい。その事実になお混乱する。まるで幼い子供を自分が救われる為にいいようにしているような罪悪感。
「僕が幾つなら、本当にシンジ君を好きだって気持ちを信じてもらえるの?」
くちづけで濡れた唇で、いっそカヲルは鷹揚な口振りで呟いた。
それは記憶に重なる言葉。
年よりずっと大人びていたあの少年が、ひそりと囁いたのを覚えてる。
『どうしたら ―― 疑り深い君に、僕が君を本当に好きだって信じてもらえるんだろうか』
信じること。
カヲルを、信じることは…
『好きだよ、シンジ君』
記憶の中で、頭半分高いカヲルが覗き込むように微笑みかける。
頭一つ低いカヲルが、見上げながら微笑みかける。
「好きだよ、シンジ君」
まるでひどく甘い幻惑が、シンジを見つめている気がした。
遠くで時計が時報を打つ。いつのまにかもう10時になっているらしい。
子供は寝る時間だ。
普段ならそういって叱っているはずなのに、今は当たり前のように言っていたその言葉が酷く滑稽なものに思える。
カヲルは果たして子供だろうか、それとも…?
先ほどのカヲルの言葉には、もうひとつの意味があるように思えた。
“僕が幾つなら、シンジ君は僕を好きだっていえるようになるの?”
答えがでないままに、今年の9月13日も、あとわずかで終わる ―― 。
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私の場合、年上カヲルと年下シンジよりも、年上シンジと年下カヲルの組み合わせの方が萌えますなー。
さて、こっからシンカヲになるのかカヲシンになるのか?…たぶんリバシ(笑)
ginto-bunko