水蛇





  どんなに喉が渇いても、呑んではいけない水があるんだよ。




かすかに鼻をくすぐる水の匂いに、シンジは顔を上げた。
昨日、この山の中で道を失ってから、一滴の水も一かけらの食べ物も口にしていなかった。うっかりと山道からそれてしまい、不十分だった備えのために、予備の食料も水も持っていなかった。
初夏とはいえ、山を甘く見た素人の独り歩きが原因と云ってしまえばそれまでだが、当事者であるシンジにすれば、そんな後悔をしてみたところで腹の足しにもならないという気分だ。そんな後悔はとっくにし果てていた。

何故素人のシンジが一人で山へなど登ってみる気になったのか。それはささやかなことがきっかけだった。
もともと人間関係をこなすことが下手な彼が、大学に入って所属した楽団。そこの人々の軋轢に巻き込まれ、どうすればいいのか迷い考えているうちに、いつの間にか取り残されていて ―― それに疲れ切って、練習に行くことも辛かったときに、たまたま1枚の写真を見かけたのだ。
青白いほどの木々の重なり、なだらかな稜線。有名な山でもないのに、シンジは何故かひどくその写真に曳かれた。何か日常と異なったことでもすれば気も晴れるかもしれない。人間関係に嫌気のさしていた彼は、本当にしばらく一人になりたいと思っていたし、そこへ行くのはそう難しそうな気もしなかった。
いつもなら臆病に見えるほど慎重な彼が、登山に関するビギナー向けの解説書を買って簡単な道具を手にいれ列車に乗るまで、それほどの時間はかからなかった。

煩わしさから逃れたほっとするような解放感に浮かれていたのか、いつもの慎重さも無くしていた。選んだ山に対して彼が購入した本はふさわしくなかったし、その中に書かれている装備や準備を全部調えていたとも云えない。そして、有名な山でもないので入山者も少なかった。それらの小さなミスや不備や偶然が、結果として大きなトラブルを招いてしまったというわけだ。

用意しておくべき非常食も持っていなかったため、昼に食べた食事を最後に、山歩きでカロリーを消費していたにも関わらず、何の栄養補給もできないままに、一晩が過ぎた。木ノ実か何かがあれば、どんなものでも口にするだろうほどの空腹、水分が取れるなら雨でも構わないほどの渇き。それを考えまいとしながら、さらに半日を過ぎていた。
そんな折りの、水の匂い。
「みず、が、飲めるんだ…」
この堪え難い空腹も、水を飲めるなら少しは紛れるかも知れない。
力の入りにくくなった足を叱咤して、よろよろとその匂いの方向へと歩き出す。道とも云えないような場所を、憑かれたように奥へと向かった。
だが、幾らも行かないうちに、
「わあぁぁっっっ!!」
突然、足下の地面が崩れて、大地がシンジを飲み込んだ。




ぴしゃん……ぴしゃん………

何かが顔を伝うむずむずとした感触に、シンジは眼を覚ました。
「…ウ、ウ…ん ―― 」
眼を開けたものの、よほど深い穴にでも落ちたのか、暗くて視界は定まらない。
体を包む服は湿っていて肌寒く、おまけに、落ちた時にどこかにぶつけたのか、左足が酷く痛んだ。
「……最悪だ…」
ここで死ぬのか、と、そんな思いが沸き上がる。
山に入った事は、登山口の詰め所で記載してあるものの、反対側から下山する事もできるのだ。まだ誰もシンジが迷った事など知らないだろうし、ましてこんな状態だとは判るはずもないだろう。
「死ぬのかな、僕…」
あまりの不運さに、自嘲的なつぶやきが漏れた。人間いつかは死ぬものだが、こんなところでたった独り寂しくみじめに死ぬ事になるなんて。きっと死体も見つからないだろう。運がいいとは思っていなかったけれど、これほど運の悪い人間も、そうは居ないだろうと思うと、滑稽になって来る。
―― ぱしゃ!
突然の水音に、シンジはビクッと震えた。
音の方を見遣ると、ようやく闇に慣れた眼が、意外な程広いらしい空間の中に、鈍く光る水面らしきものを捉えた。
「み…、みず、だ…」
思わず、カラカラに干上がった喉がごくりと鳴る。
遠からず死ぬと判っていても、今の空腹と乾きを癒せるならそれでよかった。痛む足を引きずりながら、シンジは這うようにして水辺へと移動する。その水が飲める水質のものかどうかなど、頭の中にはなかった。いざって水辺に辿り着き、そのまま水面に顔をつけて、犬のようにひたすら喉を動かした。
渇き切った喉を癒す冷たい水は甘いような味がする。
むせる程飲み込んで、ようやく人心地つく。手首で口元を拭うと、眼を閉じて大きく息をついた。
先ほどまでの黒く塗りつぶされたような絶望の中に、ほんのかすかにだが、光明を見出した気分がする。
…水があれば、誰かが探しに来てくれるまで、もしかしたら…
―― ぱしゃん!
はっともう一度水面を見る。そういえば、さっきも水音がしていた。もしかして魚でもいるんだろうか。もしそうなら、なんとかして捕まえられないだろうか?

しかし、

ぴしゃ…
ざざぁっ!

シンジの眼の前で水面が鈍く光り始め、いきなり盛り上がったと思うと、それはひとがたを取った。
「…、…な、何…!?」
驚きのあまり逃げを打つ体、反して、視線はそれに縫い付けられていて。
そこには、青白く光るひとのかたちをしたなにかがいた。
全身を濡れ色に鈍く光らせ、それはシンジを見ている。
眼を合わせてはだめだと本能が警告したが、とっくに視線は出会ってしまっていた。


『…水を、飲んだね…?』


そのひとがたは、むしろ優し気な声で囁くように話し掛けて来た。
恐怖に凍り付いたシンジを見つめると、その赤い瞳が獲物を見つけたように細められる。
『水を、飲んだね?』
あまりの恐怖に頷く事もできないシンジに、滑るように近付いて来る。
そしてシンジに被い被さるようにして動きを止めると、もう一度囁いた。
『飲んだね…?』
条件反射のように、恐怖に頭が焼け付いたシンジが微かに頷く。もう何が起きているのか、目の前のものが何なのか、到底理解できない。すると、そのひとがたは、シンジの反応でとろりと笑った。
『では、君はもう僕のものだ…』
ひどく甘い声で告げられた言葉の意味を理解できないシンジに、さらに妖しく微笑む。
『僕は君が気に入ったよ、…君はとても美味しそうだからね…』
銀色の髪から水滴が落ち、シンジの頬を打つ。ぴちゃん、ぴちゃん、と、それはシンジの頬を滑って首筋を伝った。微笑みを浮かべながら囁いてくるその顔が、とても美しいことにようやく気付いたように、シンジの体の中で大きく鼓動が跳ねる。
『僕は気にいらないモノは壊してしまうんだけど、』
白く光る冷たい手がシンジの顔を挟む。そして、ひやりとする唇がシンジのそれに重ねられ、ぬるりと熱い舌が口腔内に侵入して来た。
「ン、んんぅ、…ふ…!」
水よりも甘い唾液がシンジの喉を滑り落ちて行く。痛いほど絡めとられた舌が、相手の舌で擦りあげられる。たっぷりと絡めた後、そのままその冷たい唇はシンジの頬から水滴の跡を辿って首筋へと移動した。
「あ、ああ…」
まるで唾液が媚薬ででもあったかのように、シンジはその唇の動きに震えた。恐怖で何も考えられなかったはずが、今は別の形で思考をストップされているように。耳の下に吸い付いた唇が、強くそこを吸い上げると、シンジの体がびくびくと反応する。
それににんまりと笑って、耳に言葉を直接吹き込む。
『僕はカヲル…ねぇ、君の名前は…?…教えてくれるよね…』
ぞくりとする快感と共に、その甘い声はシンジを捉えた。
「し、…シン…ジ…」
いつのまにかシンジの腕はカヲルの首に回されていた。相手が何か得体の知れないものだということも、もはや忘れてしまったように。
楽し気に笑うカヲルが、シンジの泥に汚れた衣服を裂いて行く。それに逆らいもせず、むしろシンジは協力的に体を浮かした。そして滑らかな肌を露にすると、カヲルは当然のようにシンジの足を開かせる。
そのまま、冷たい水の中に下半身を引きずり込まれた。ばしゃんと大きな水音がして、洞窟らしい空間に響き渡る。ぐっと後ろに何かが押し当てられ、シンジがそれを理解する前に、強引に中へと入って来た。

「ああああああ!!!!」

いきなりの侵入の痛みに仰け反るシンジを、カヲルはうっとりと見下ろしている。異物を迎えた事のないそこはきつく、痛みにひくつきながらカヲルを締め付ける。
『ふふふ、痛いのは今だけだよ ―― すぐに気持良くなる…僕がそうしてあげる…』
容赦無くカヲルが動き始めた。捩じ込まれ引きずり出される痛みに、怪我をした事も忘れてシンジの足がばたつく。ばしゃばしゃと荒い水音がして、引きずり込まれた水に、赤いものが混じり、広がって行った。
えぐられる痛みと水の冷たさとで、足の指先はマヒしたようになり、徐々に思考もさらわれていく。何度も深く口づけられ、まじり合った唾液が流し込まれる。呑みきれなかった分がシンジの唇から溢れて流れ、カヲルの手がそれをシンジの全身に塗りたくっていく。
「あ、ああ、うァ…っ、あ、」
だが、やがてシンジの声音に変化が起きたことを、カヲルは聞き逃さなかった。角度を変えて突き上げると、きり、とシンジが爪を立ててくる。快感が痛みを上回り始めたのだろう。陶然と細められる、カヲルの赤い瞳。
そして、強く突き上げると同時に声をあげて仰け反ったシンジの喉に、カヲルはきつく噛み付いた。
何回か喉が嚥下するように動いて、その口元が赤く染まっていく。血を呑んでいるのだ。その後、カヲルの舌が血を拭うように喉の傷口を舐め上げる。その間も、シンジの表情は恍惚としていた。
『やっぱり、思った通りだね…君はとても ―― 』
既に快感に溺れ始めたシンジに、カヲルは満足げに囁きかける。シンジの血は極上の甘さでカヲルを悦ばせた。そして、その血だけではなく、吸い付くような肌と、そのしどけない表情、とりわけ他人と交わることに苦痛を感じるほど無垢な心が、カヲルには何よりの供物だった。

「あ・あ、いやぁっ、ん、ああ…っ、んうっ!」
突き上げられる快感に蕩けながら、シンジは山に登る前に寄った食堂で地元の人間に聞いた話をぼんやりと思い出していた。
この山には水蛇が棲んでいる、呑んではいけない水がある、と。
『僕は君をとても気に入ったよ、シンジ君。とてもね ―― 』
その水を呑んだものは、殺されるか虜にされるか、何れにせよ、二度と人間の世界には戻れないのだ、と。
初めて、シンジのそれにカヲルの指がかかった。強く扱かれて、後ろの快感に勃ちかけていたそれが硬く張り詰める。快感が加速して、シンジは思考の隅まで白く焼かれて行くのを感じる。
”殺される方がまだマシらしいね、虜にされると、あとは永遠に云うなりにされるというから。”
もの珍しい旅行者に語られた、単なる昔話だと、思った、のに。
『 ―― 気持ちいいだろう?』
淫蕩な笑いを含んだ赤い瞳に頭の中を染め上げられながら、シンジは最期の思考の残骸を浮かべた。
「いい、よぉ…ぁア、キモチ、いい ―― 」
そして、シンジの眼から理性が消えた。あられもない声を上げ、カヲルの動きに合わせて腰を振り、自分を嬲る指の動きに陶酔した。全身でシンジを狂わせようとうごめく白い体と、その下で与えられる快楽に溺れるシンジの様は、まるで2匹の蛇が絡み合っているかのような妖しい美しさがあった。
「もっと、もっとぉ ―― 」
水と唾液とに濡れながら、シンジは射精していた。カヲルがその手に出されたそれを、赤い舌で舐め取ると、さも楽しげに飲み下す。
『ふふふ…君はもう僕のものだよ、シンジ君…』
シンジを思うまま犯しながらにんまりと笑うカヲルの右の肩甲骨のあたりが、わずかな光を弾いてキラキラと輝いていた。

この山には人を虜にする水蛇が棲む。

そう、それは、銀色の、鱗 ――


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postscript

えーと、当時の設定メモに「カヲルが妖魔」とだけしか書いてない。…きっと無性に人外カヲルが書きたかっただけかと。