deep orange




長く暗い通路の突き当たりに、停止階表示のないエレベーターがある。
注意深く隠蔽された、ほんの数人しか存在を知らないその通路の、さらに行き着く先を目指すのは、今はもうただ独りだけ。



  



 そこには、何の気配もなかった。
 あるのはただ、長い通路にところどころ灯されている小さな非常灯のみ。それは暗闇を遠ざけるというよりは、ただその空間での天地の区別をつけるためだけのもののようで、か細くほの昏い光量しかない。
 そして、その気配の無さに相応しく、訪れる人のための表示や配慮も一切なかった。それはつまり、そこを行く者は全員、辿り着く先にあるものを十分に理解しているということを表している。
 用のないもの、資格のないもの、そういった者達は、この通路に辿り着く事自体が叶わない。
 その通路に辿り着くまでに通る道筋も、まるで迷路のように入り組んでいて、先に進むほど選択肢が減り、表示が減り、それに応じて光量が目減りして行く。
 ひたすら長い道のりは、正しいルートを知っている者でなければ、そこまでの似たような通路のどれがフェイクかも判らないし、例え綿密に見取り図を作っても、それだけが関門ではない。IDチェック、指紋チェック、網膜パターンのチェック、そして生体内識別チップまで――幾重にも張り巡らされたチェック機構をかいくぐるのはほぼ不可能だろう。

 ここにはチリ一つ積もらない。
 場所の性質を振り返れば、ここをまめに掃除する者がいるはずもない。迷路の途中、まるで、外気と遮断する真空の層を設けるかのように幾度かクリーンルームを経由するのは、それだけここが外界から遠ざけられている必要があると判断されたからだ。

 今、その通路を粛々と歩む1つの影があった。
 固い床を踏む足音がなければ全くの無音なのだろうその通路では、自分の呼吸音はもちろん、鼓動の音さえ聞き取れそうで。まるで、音はおろかかすかな空気の動きまで一切の変化を拒否しているかのように、時間の感覚さえ曖昧になる。そして、果てしない通路の突き当たりでやっと足を止めた時には、それまでの幽かな足音さえ一種の慰めだったのだと、否応無しに悟らされることになるのだった。

 その場所の特徴ともいえる暗さでは判別し難いが、突き当たりは扉になっている。人影はその前で計ったように足を止めた。
 扉の右脇には、壁の色に溶け込んだ小さなタッチパネルがある。パネルの表示はただ、進入不可を示す小さな赤いダイオードと、下へと向かう記号だけ、示威的な警告もエレベータの到着を知らせるための表示もない。だがそれは、ここまでの道のりと同様に、このエレベータを使う者がごく限られていることの証左。資格のあるものしかここに立てるはずもなく、事実、これまでにこのタッチパネルを押して無意味に待たされたことは、ただの1度もなかった。
 乏しい光量のために年令や性別さえ判然としないが、その人影は、扉の前で立ち止まったまま、そのまま少しの間ぴくりとも動かなかった。行き先を失ってのことではない。もしここに人目があれば、それは躊躇や逡巡と云うよりは、何かを反芻しているような様子だと知れただろう。

 やがてその人影は、何かに曳かれるように腕を上げ、小さなパネルに仕込まれたセンサーに指先を触れさせた。
 ピ、と微かな合成音がしたかと思うと、継ぎ目があるとも思えなかった壁の両側から青緑の光の帯が結ばれ、その場に立つ人影の足下から、さながら水が満ちるように上へと上りはじめる。体内に埋め込んだ生体内識別チップを再ラーニングするためのレーザー光。無機質なその光は、ようやっとその人影の概観を露にした。
 それまでの警戒の厳重さに似合わない、紺に黄色のロゴが入ったバスケットシューズ。何かの制服のズボンに包まれた細身の下肢。無造作に絞められたベルト、白いシャツ。青緑の光が愛撫するように細い首をなめ、小作りな顔を照らすと、人影がまだ少年だということが露呈する。それまでの暗がりに慣れた眼が光を受けて眩し気に眇められている何秒かで、最後のチェックは音もなく終わり、そしてチェック前以上に深くなったような闇だけが残される。
 1秒わずかのタイムラグ。照会がなされると、再びごく小さな電子音と共にパネルのダイオードがグリーンに変わり、全てがほどかれたことを告げる。…長い迷路もクリーンルームも幾重ものチェックも、ただこの扉を開くためだけに用意された、あまりにも大掛かりな『扉の呪文』だった。

 低い音を立てて黒く無表情な扉が上下に開くと、少し遅れて内側の無骨な扉が左右に開く。
 その瞬間、押し込められていた風が行き場を得て一気に吹き抜ける。それは扉の前に立つ少年の体が後ろへとまろぶように煽られそうなほどの勢いだ。けれど最初の圧倒的な一陣が吹き抜けても、風はまだ強く、止むことはない。扉の向こうにはごく短い橋組みがあり、さらにその先には――間際にした彼の立つ位置からでさえ一切の仔細を伺わせないような闇が口を開けていた。



  



 短い通路の先の闇は、そこに踏み込んでしまうと、かすかな輪郭を晒した。眼が慣れるまでは黒く塗られた箱にしか見えないが、やがて目が慣れてくるとそれがエレベーターケイジだと知れる。それは闇の底へと降りる唯一の方法だった。
 ケイジはいかにも作業用だといわんばかりに、鋼鉄の枠組みと塗装の褪せた目の粗い鋼鉄の格子で構成されている。一度にせいぜい3人ほどしか乗れない程度の大きさの鋼鉄の箱は、足を置く底板さえ格子状で、深く深く下へと伸びる縦穴をごうごうと吹き抜けてくる風を遮る役目など到底果たせない。吹きすさぶ風の空ろな音と、格子を通してさえまるで奈落へと続くかのような暗闇。造りの慣れない者はそこでかなりの恐怖感を覚えるだろう。

 少年は、いつものように、そのエレベーターケイジの中へ歩を進めた。吹き上げる風に柔らかな黒髪が踊らされ、散らされる。彼がいつも無意識に操作パネル寄りに立つために、底板の塗装はそこだけが余分に禿げてしまって錆がつき始めているのだが、それを気にするような人は――そこに立つ彼自身を含めて――誰一人としていなかった。
 微かな擦過音を伴って扉が閉まると、暗いと思っていた通路の灯でさえ恋しくなるような真の闇が彼を包み、扉が閉るとすぐさま降下が始まる。最初は徐々に、だが次第に速度を速めて。縦穴を降りる途中も、風は容赦なく――いや、さらに速度を増して吹きあげてくる。設計上のことは彼には判らないが、空気抵抗を減らして昇降の速度を維持するために、わざとケイジを格子状にしてあるのかもしれない。
 初めてこれに乗った時、速すぎる降下速度は墜落と変わらない気がして、底の見えない恐怖に、壁に後じさってへたり込んでしまった。まるで奈落へと落ちるような幻惑に立っていられず、動き出してすぐに方向感覚を喪失して吐き気さえした。
 だがもう、それにも慣れた。慣れるに充分なだけの数、ここへと足を運んでいた。
 風に踊る髪、風切る耳鳴り、暗闇の圧力。
 今となってはその程度のことは単なる通過儀礼でしかない。
 奈落へ墜ちるというのは、案外こんなものなのかもしれない。
 …それはこんなにも簡単なことなのだ。


 時間の感覚を喪失した彼には実際よりも長く感じられるのだが、ものの2分もすると、暗闇にしか見えなかった足下の格子板越しに光を透かすことができるようになる。そうなると、あっという間に光は強くなっていく。奈落の底が近いのだ。その光が近づく一部始終を逃すまいと、少年はケージの床に蹲り、憑かれたように光を見つめた。
 吹きすさぶ風の中でも瞬きすら忘れ待ち望んだ光に胸が騒ぐが、次の瞬間ガクンと何かに引っかかったように勢いが削げる。いきなり体が宙に浮く異様な感覚に、彼は思わず口元を手で押さえた。急激な降下にいきなり強い抵抗が加わるこの瞬間はどうしてもいただけない。速度と制動のギャップに三半規管が耐えきれず、強烈な目眩と吐き気が伴うからだ。苦痛に薄く涙がにじむ。ここに来る前には食事をとらないようにしていたけれど、それでも空っぽの胃が捩れるような不快感はなくならない。多分、この先何度来ても、彼が人の体である限りこれにだけは慣れることはできないのだろう。
 しかし、それは代償でしかない。何秒かを耐え切ればいいだけだ。一度制動がかかると、そこからはほんの数秒なのだから。
 鉄格子のようなケイジはそれまでの落下速度が嘘のようにスピードを落として底へと落ちつき、オレンジ色の光が視界を染める。
 そこにはすでに異界が広がっている。彼が求めてやまない世界が。



  



 格子が開くと、彼は待切れないように足を踏み出した。外の景色とは明らかに異なるその光景にかけらも躊躇せず、鋼鉄の檻から白い砂の上にまろび出る。
 そこは、まるで古代の神話に出てくるような姿をしていた。あれだけの距離を落下してきたのだから相当な地下なのは間違いがないというのに、物理法則を無視したような広大な空間。光源も定かではないのに、広く広く一面オレンジ色に光っているのは血の匂いのする液体。それは過去、何度も彼自身が浸ったもの――LCLと呼ばれたものだった。それがまるで地底湖のように、果てさえ判らない空洞に満ちている。ケイジから幾らか離れればもうその水際だったが、あまりに広い空間を満たした液体は、シンと静まり返っていた。

 オレンジの湖を目にすると気が急いて、彼は靴のままそのLCLへと踏み込んでしまう。自分が泳げないことを思い出すのは服を着たままの腿の半ばまでが浸かった後だ。水よりやや比重が重い液体はあまり大きくは波立たず、立ち止まった彼の足を中心に、幾つもの同心円が重なりあいながら広がって行った。
 水音が止んでしまうと、そこはまた彼が来る前の静寂を取り戻す。彼が作った波紋もやがて小さくなり、消えてしまうのだ――何もしなければ。
 彼――シンジは、胸元のポケットから小さな折り畳みナイフを取り出し右手の親指の腹を刃に当てた。あれ以来、彼の右手の感覚は鈍っている。痛みへの躊躇もみせずに無造作に刃の上を滑らせると、柔らかな皮膚は思いの他さっくりと切れて鮮血が溢れだした。
 オレンジ色のLCLに、一際濃い鮮血の赤がポタリと落ちて混じった。血の匂いのするそれは水よりも血液に親和性が高いのか、赤い水滴はあっという間に拡散して行く。シンジは溢れる血を拭うこともせずに、右手をLCLに浸し大きく混ぜるように動かした。しばらくそうやって血を溶かすと、ようやく彼は体を起こす。傷はまだ血を流したままで、血液が雫となって滴っているが、もうそれには注意さえ払っていないようだった。

 やがて。

 こぽり。

 静まり返っていた地底湖に、シンジ以外の存在が起こした水音がする。

 ぱしゃ。

 この広大といえる空間には、それまで彼以外には生きたものの気配ひとつなかったというのに、離れたところに水音とともに何か動くものが認められた。それはまだ形を捉えられるほどの距離ではなくすぐに水面へと没したが、水面にはこちらへ向かって水紋が伸びてくる。水の中を何かがこちらへと音もなく近づいていた。シンジはただその水紋を見つめる。ややあってシンジからすぐ1メートルほどの間近に、それは水中から姿を表した。

 オレンジ色の液体から身を起こしたのは、ひとりの少年だった。
 抜けるように白い肌は一糸も纏わず、水面から出た半身は、なめらかな胸のうす赤い胸の飾りだけが際立ち、LCLに濡れて頬や額に張り付く髪は鈍く銀の光沢を放っている。髪を伝うLCLが白い顔の輪郭を辿り、細い顎の稜線の極みで雫を作り、重みに耐え切れないように落ちて行く。落ちた水滴は断続的に水面に輪を描き、浸されたままの下半身をくり返し揺らめかせていた。ただそれだけのことが、どんな装飾よりもその少年を扇情的に彩っている。人だというにはあまりにも整った形は、伝説のセイレーンのように水棲の生き物を思わせた。


 白い少年はただ一言も口を開かなかった。
 けもののような赤い瞳で一瞥をシンジに投げると、その視線はすぐに彼の右手へと移動した。スン、と軽く鼻を鳴らし血臭を認めると、光の強い赤い瞳をすうっと眇める。
 シンジもまた無言で、まだ血の止まらない右手を差し出した。血の雫が水面を叩くたびに水音が小さく響き、オレンジの水にゆらゆらと拡散した。
「…おいでよ」
 動こうとしない少年に、ひそりと呟くと、シンジは傷口をわざと開かせるように親指を握りこんだ。再び手を開くと、その手は真っ赤に濡れている。指に絡み手のひらを伝う赤いそれは、彼自身の鼓動と同調して疼く傷口からなおもじくじくと溢れている。
 ちらりと、やけに赤い舌がその白い少年の唇を濡らした。シンジの右手から目を離さないまま、血の匂いに誘われたように体が動く。ことさらゆっくりと白い体が水音と共に近付いてくる短くて長い時間を、シンジは気が遠くなるほどの忍耐で耐えた。
 差し出した手の前で少年は動きを止めた。不用意に驚かす事を懼れて、シンジは逸る気持ちを抑え込みただひたすらにその動きを見守る。白い体、赤い瞳。オレンジの波紋が肌に淡く紋様をたゆたわせる。こめかみに熱を感じ、体が渇望に炙られるような気がした。

 白い少年は、そんなシンジの思いなど知らぬげに表情を動かすこともなく――まるで猫が皿の中のミルクの匂いを確かめるように、首を延ばしてシンジの手についた血の匂いを確かめると、ぴちゃ、と舌が肌についた血を舐めた。その柔らかく温かい感触に、ぞくりとシンジの背を這い昇るものがある。最初の緊張をやり過ごしてしまえば、少年は驚くほど貪欲にそれを欲した。辺りを満たすLCLはうすく血の匂いがするが、血そのものはもっと深く強い芳香を持つ。この地底湖に生息しているものにとっては、一種の媚薬とも言えるのかもしれない。
 手についた血をあらかた舐めとってしまったらしく、がり、と、少年の犬歯が傷口をさらに傷つけた。さすがにその痛みを無視できず、シンジは思わず眉を寄せ小さく呻いた。けれど、噛まれた指を引くことは絶対にしない。むしろ、溢れた血に吸い付く唇と舌にさらに与えるように、その唇に含ませると、柔らかな舌が指に吸い付いた。自分の赤い血が白い肌を汚し、時折細い喉元に伝う光景はあまりに艶かしく扇情的だ。


 充分に血の味を与えた頃、シンジは自分の指を少年の唇から取り上げた。
 反射的にそれを追うその鼻先に血の滴る手をひらめかせながら少しずつ浅瀬へと戻っていくと、白くしなやかな腕が焦れたようにシンジの袖を掴んだ。ばしゃん!と荒い水音と共に二人の体が倒れこみ、獲物を抑え込んだ猫科の獣のように少年がシンジの上にのしかかる。
 これまでに何度もこうしてシンジの血の味を教えているから、かなり少年は馴れてきている。掴んだ袖ごと右手を引き寄せると、シンジに跨がったままでさらに傷口を舐めはじめる。…半ば恍惚ともいえる表情で。
 白い顔の口元が、赤く赤く汚れている。
 白と赤のコントラストに誘われシンジは、つい、と顔を寄せた。少年は一瞬半身を翻したが、まだシンジに跨がったままだった。それを認めると、今度はもう少しゆっくりと顔を寄せ、口の周りについた血の汚れを今度はシンジが舐めてやる。濡れた唇の端まで丁寧に舐めとり、そのままそっと身を放すと、掴まれたままの手を持ち上げ、見せ付けるように自分の手首に伝った血を舐め取った。

 その様子を見ていた少年が、ややあって、シンジの方へと顔を近付けてきた。シンジの口元にその唇が寄せられ、熱く柔らかい舌が血の汚れをなぞる。一度そうして触れてしまうと、飢えた猫がミルクを貪るような勢いでそこについた血を舐めとっていき、それはやがてシンジの唇に辿り着いた。シンジが少年の貪欲さに応えるように唇を緩ませると、すぐにぬるりと舌が入ってくる。口の中に広がった血の味を全て貪り尽くすような舌の動きに、シンジはそっと自分の舌を添わせた。ぬめる感触、くちゅくちゅとした濡れた音。口の中の血の味はすでに薄れていたが、人の体液は全てが血液と同じ源から生まれている。少年にとって、唾液も血と同じく感じられるのだろう。やがてシンジにはそれが深いキスと同じ意味になり始めていく――少年にとってそれが“キス”ではなかったとしても、先を求めるように絡んでくる舌の甘さに変わりはない。
「…ん、ふ…っ、ん、はぁ――っ」
 シンジはあまりに深くなったくちづけに、呼吸が伴わなくなって思わず唇を離し、上がった息をついた。頬が火照って下腹が熱い。思いも衝動も、もうこれ以上抑えられない。味を占めたようになおも唇を合わせようとしてくる少年に縋るようにして抱き締めると、上ずった声で小さく叫んだ。
「カヲル君…!」
 一度口に出すと、止まらなくなった。
「――カヲル君――カヲ…く、…かをるく…」
 赤い瞳の少年に向って、狂おしく囈言のように名前を呼んだ。名前を呼ぶ合間にくちづけを交わし、くちづけの合間に名前を呼ぶ。唇を合わせながらその白い肌を探り、銀の髪をまさぐった。
 滑らかな白い肌も、紅玉を思わせる瞳も、つやのある銀味のかかった髪も、全てがあの日出会った時のまま。
  肌にはただ1点の瑕もなく(細い体は粉々に砕け散ったはずなのに)
  赤い瞳は強い光を宿し(堅く閉じられた瞼は青白く色を亡くしていた)
  唇は甘く熱い息をつく(動かなくなった唇は酷く冷えていた)
 けれど、今は。

  生きている。

 彼は、今シンジの腕の中で生きている。白い肌が温かく、唇が呼吸をして、その指は、舌は、シンジを求める。例えどんなカタチの生であったとしても、この確かなリアルに叶うものなど他にはない。心臓ではなくS2機関が営む命であっても、それがどれほどの違いがあるだろう。

 硬質な光を放つ瞳はシンジを虜にしたあの優しい表情を浮かべない。薄い唇は、詠うような甘い声音を忘れ、シンジを酔わせた数々の言葉を紡がない。銀糸の髪に包まれた小作りな頭の中には、シンジと過ごした記憶すら持たないのかもしれない(きっとそうなのだろう)。
 もう、5番目の適格者でもタブリスという名前の使者でもない。
 ここにいるのは、老いに鼓動を止めることもなく、伴侶も必要としない、永遠に生き続ける完全体。
 ――何ものにも縛られないいきもの。
 彼はもう、年をとることもしないのだった。あの日から1年近く経ってシンジも少しは成長した。身長が少し伸び手足が少し大きくなって、時の経過を刻んでいる。だが、カヲルだけはそのまま、15歳のままだ。永遠の生を生きるものにとってそもそも「年令」など不要の概念なのだから。

 だが、シンジにはそれがむしろ喜ばしい。
 シンジの名を呼ばない唇は、もう死を希む言葉も紡がない。
 優しく微笑まない瞳は、もう“裏切る”ことがない。
 年をとらない彼は、もう死ぬことがない。
 誰もその生を侵せない。
 例え、未来永劫この地下に棲まうことになったとしても、例えシンジが――全ての生き物が死んだ後でも。
 彼ダケハ生キ延ビル。

 あるいは。
 彼が地上に進む気になれば、それを誰が止められるはずもない。
 その時には、今度こそ彼は、人類に死を賜う告死天使として降臨するのかもしれない。
 (慈悲もなく、憐憫もなく、躊躇もなく)
 (全てに平等にもたらされる終焉)
 けれどもそれさえシンジには願いの範疇だ。
 人が全て死んでしまったとしても、それは淘汰というものだ。
 例えそれで人が滅びたとして、それが本当に理不尽なことだろうか?
 これまでに人類が滅ぼしてきた数多の生命、それらが辿った道筋が、人に巡ってきたに過ぎないというのに?
 滅びに抗う権利はあっても、滅びを理不尽だとするなら、それは傲慢に過ぎるというものではないか? これまでに人に滅ぼされた幾多のものたちだって、決してそれを望みはしなかっただろうに。
 どうせ自分だっていつかは死ぬ。ならば、その選択はカヲルにこそ託したい。
 今になって、あの時のカヲルの言葉に共感を覚える自分がいる。

  “人”同士で君と判りあえないと絶望するよりも、
  初めから判りあえない“使徒”として、
  “君”という存在を、あるがまま全て腕の中に抱え込んでしまおう。
  例え言葉で判りあえなくても、
  ほら、僕らは今こうして互いの肌に熱に触れあえる。


 カヲルがシャツの胸元をきつく掴んで唇を合わせてくる。それが欲情からではないのを承知しながらも、シンジは自分からシャツの裾を引き出し、ボタンを外した。舌を絡めながら、白い手から掴まれた襟元を引き剥がして脱ぎ、手荒に丸めると、岸を見もせずに後ろへ投げた。素肌に直接カヲルの指が触れると、熱いものに触れたような鋭い快感が背筋を駆けのぼりさらに熱を上げていく。カヲルの胸に自分の胸を添わせると、胸の飾りが擦れあってつぷりと立ち上がった。
 細い体を巻き締めた両手で滑らかな背中をなで下ろし、LCLに浸った下肢をまさぐる。手の中に捉え指を絡めると、もう生殖の意味を持たないはずのカヲルでも、その体が反応を返してくる。シンジという“個人”を識別しているかどうかさえ定かではない今のカヲルは、もう以前のようにカヲルからシンジを求めることはない。だが、それなら今度はシンジが求めればいいのだ。カヲルは――幸福も裏切りも絶望も――全てをシンジに与えた。欲することと与えることは、結局は1枚のコインの裏と表のようなもの。シンジがそれをするのに躊躇う必要などない。

 人と似たカヲルの体は、それを快感に感じる構造をしていた。絡めた指で愛撫すれば、それは人と同じように姿を変えていき、下肢を高めれば、カヲルの表情にも変化が表れてくる。次第に息を荒くし白い頬は薄桃に上気して、その変化はまるで夜に咲く花の開花を見ているようだ。
「――イイ?…カヲル君…」
 立ち上がったカヲルのそれを強く擦りあげると、
『ア…ッ!』
 きゅっと喉を曝して唇が悲鳴のような喘ぎをつく。シンジにまたがった細い足が刺激する度にびくんと跳ねるのが楽しい。カヲルにただ抱かれるだけだったあの時には、彼がこんなにもしなやかに背を反らすのだとは知らなかった。自分さえ素直に手を延ばせば、もっともっとカヲルを知ることができたのに。
 思えば、彼はまるでディラックの海のようにシンジを飲み込んだのだ。シンジが求めれば求めるだけ与える夢のような人。無意識の願望すら読み取る奇跡のような人。シンジは欲するものを言葉にする必要さえなかった。それはまるで果ても底もない深遠と同じで、けれどシンジがただそれに気づかなかっただけではなかったのか。尽きない泉のように与えられるものに眼が眩み、彼の求めるものにはかけらも気がつかなかった。本当に貪欲で本当に全てを奪ったのは、自分のほうだったのではないか…?

 カヲルが整わない息を吸おうとする度に、ぞくりとするような細い声が何度も何度もシンジの鼓膜を灼く。シンジを酔わす言葉はなくても、カヲルのそんな姿自体がシンジを煽る。それはシンジがカヲルに欲情している証拠だ。そしてその証拠は、鼓膜以上に彼自身の下肢に表れていた。
 カヲルの昂ぶりを愛撫しながら、シンジ自身も衝動を押さえ込むことができなくなっている。
 のしかかられたままでベルトを外して前を開くと、すでに弾けそうなそれを引き出して、熱くなっているカヲルのものと一緒に包み込む。欲望のままに強く摺り合わせれば、二人の息遣いのタイミングまでがシンクロして、最後まで残っていたわずかな理性は簡単に蒸発した。シンジがカヲルの腿を抱えて引き寄せると、LCLがばしゃりと派手な音をたてる。一瞬カヲルの体が浮き上がり、シンジは昂った自分のそれをカヲルの中へと一気に突き立てた。
『――アアアア!!』
 その時だけは、まるで赤ん坊のような声で、カヲルは啼く。乱暴だと判っていても、その声をどうしても聞きたくて堪らない。痛みと快楽がないまぜとなった声はこれ以上ないくらいにシンジを狂わせる。
「カヲル君!――カヲルくん…っ!」
 止まらない衝動を、あるがままカヲルにぶつける。シンジが思う様その体を突き上げれば、カヲルは幾らでも啼いた。初めてこうして繋がった時でさえ――それは今より不馴れな分だけさらに乱暴だったろうに――明らかな嬌声を上げ続けた。
『アッ、…ゥ、ハァ…ッ、アア…ッ!』
 カヲルの一番反応する部分をシンジは執拗に突き、貪るように喉に舌を這わせた。カヲルの声がするたびに細い喉の声帯が震え、添わせたシンジの唇にそれが伝わる。もっと啼いて(もっと感じて)。僕が判らなくてもいい、ただ、こうして僕を欲してくれるなら。シンジの動きに応えるようにカヲルの襞が絡みつき、荒い水音にあわせて半身がしなり、その貌に切ないものがよぎる。その切なさが次第に快楽へと開花していくのを見るだけで、シンジはいくらでも与えることができる。
 加速する欲望はシンジをただのケモノに還元する。それはシンジにとって、限り無くカヲルに近い存在になるということでもあった。一切の禁忌を持たないカヲルにとって、繋がる快楽はいわば甘い蜜だ。なおもカヲルが唇を合わせてくると、混じりあって溶けそうな程の深さで舌を絡めてくる。そうなるとシンジにはもう、自分がカヲルを抱いているのか、それともカヲルに抱かれているのかさえ、判らなくなってくる――。

 シンジが達する瞬間、カヲルは一際高く啼き、同時に達した白い体はまるで踊るようにしなった。カヲルのものに絡めた指の合間から漏れた白い体液が、オレンジの水に溶けていった。
 荒く息をついたシンジは、縋るように抱き締めた白い体ごと水に倒れこむ。まだ繋がったまま浅瀬でカヲルを見下ろすと、上気した頬のその赤みがシンジを煽る。引き寄せられて唇を合わせられると、それが愛情からの行為ではないとしても、熱は何度でも生まれた。
 今は人であることを忘れる時間だった。
 愛情の有無など、考える隙間などいらない。



  



 目が覚めると、すでにカヲルの姿はなかった。
 水に棲む生き物は水の底へと戻ったのだろうか。
 オレンジの水面も薙いで、自分と彼が乱した水際の砂の跡だけが、彼の名残りを留めていた。手の跡が残った白い砂に、そっとシンジは自分の手を重ねると、その手に自らの額を乗せる。血の匂いの中でも合わせた肌に微かに残るカヲル自身の残り香を追いながら、眼を閉じて細く長い息をついた。
 寂しいというのではない。
 カヲルは人ではない。
 シンジも使徒ではない。
 それは単なる事実で、絶望ではないのだ。
 天使はもう死を望まない。
 等価値なままに、位相は逆転したのだ。
 カヲルがシンジをシンジ自身として覚えてくれなくても、シンジの血の味は覚えている。
 シンジが与える快楽を欲してくれる。
 だから、それだけで充分だった。

 やがて、シンジはその痩せた体を起こす。
 幾筋もの白い線が走った親指の新しい傷口は、もう血は止まっている。脱ぎ散らかした服を拾い集め、身を包む。布地はまだ幾分湿っていた。傷をつけたナイフを探して、胸ポケットに仕舞いこむ。ことさらに淡々と、言葉もなく身支度を済ませると、シンジは傷口にそっと唇で触れた。まだかすかに血の味が――カヲルの唇の味がする気がした。



 そうしてまた、シンジは地上へと戻る。
 オレンジ色の底に赤い天使を残して。
 奈落に墜ちた彼は、必ず外界へと戻るためのこのパネルに触れねばならない。
 切り替わったパネルの表示は上へのただ1つだけ。緑の光を再び赤くするために。
 ケイジに乗り込み上を見上げると、吹き抜ける風が低く侘びしくすさび、シンジの髪を巻き上げた。
 これに乗れば、シンジは彼の属すべき場所へと引き戻される。
 けれども、そこはもう彼にとって『天国』にはならないのだ――シンジにとっても全ての位相は逆転した。まるでそちらが奈落の底のような気分がする。今、僕はここを昇るのではなく、頭から墜ちていくのだ。現実という名の奈落へ。そんな苦い錯覚が抜けることもまたないのだろう。なぜなら。
 禁断のアカイ林檎を、口にしてしまったのだから。

 パネルに触れると、あっけなく扉が閉じ、ケイジが持ち上がるのを感じる。
 来た時と同じくケイジの底に蹲りながら、シンジは遠ざかるオレンジの光を眼に焼き付けようと瞬きもせずにただその一点を見つめ続けた。
 地底の光を後にする瞬間は、いつも楽園を追われる絶望に似た味を味わうけれど、彼はいつしかそれにも慣れた。
 これは絶望ではない。シンジはLCLだけでは生き続けることができない、ただその事実があるだけだ。
 もう僕はどんなことだって出来る。カヲルとの時間を維持するためには、現実という代償を受け入れ続けねばならないだけだ。
 人は、大抵のことには、慣れていけるものなのだ。それが、人という種族が得た生きる知恵の一つなのだから。

   (急激な昇降の唐突な制動に三半規管が決して慣れないのは、
    急激な幸福の唐突な終焉には決して慣れることができないからかもしれない。)

「また来るよ、カヲル君」

 シンジは、頭から奈落へと墜ちながら、闇の中に消え入ろうとしている光に向かってひそりと呟いた。
 髪に吹き付け下へと吹き降りる風が、耳の奥で谺していた。



   “僕を忘れて。”



   僕を思い出して。
   …僕を刻みつけて。




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postscript

シンジに啼かされるカヲルが人外で書きたかった。使徒ちゃんは教育されなければ野生動物みたいなもんかなと。それがなぜこうなったかは私にもナゾですが。
水蛇の時は人外が人を飼う構図だったけど、これはその逆パターンに近い話です。(本当は飼われてないけどね。)