銀兎文庫::novels1
リリンの世界には国境があるけれど、彼らを包む大気には国境などない。
僕の意識は北へ南へ、東へ西へ、世界中を駆け巡る。ある時は偏西風に乗り、ある時は貿易風をつかまえる。
鳥やイルカのお供をし、馬たちと速さを競い、極点を行き過ぎる。海面を低く飛んでから高度を上げて、雨雲をつきぬけ対流圏を通り越し、ジェット機を交わしながら成層圏を撫で、中間圏で少しスピードを緩めて夜光雲を眺め、熱圏でオーロラを揺らす。
冬の極みを越えた世界は自転を繰り返しながら春の盛りへと向かっている。さらに夏の極みまでの間、僕は風だ。意思一つで世界中どこにでも行ける。世界の安定を確かめ、月の満ち欠けの作用を助けて北半球と南半球の海水の温度差を均し、雨を運んで湿気を吹き飛ばす。
まるで歌のように、僕は世界のあらゆる物と同調率を奏でながら、1年の半分を過ごす。
歌…ああ、そうだね、僕には片時も忘れ得ない懐かしい歌がある。
彼と出逢った時に僕が口ずさんでみたあの歌。そう、歓喜の歌。
赦しの言葉、恵みの旋律、歌はリリンが生んだ奇跡の一つ。人ではない僕でさえ、その旋律には高揚を感じる。僕はそんな奇跡たちに魅せられてしまった。リリンの産んだ有限の美に。
世界を巡りながら、気がつくと僕は歓喜の歌を歌っている。とてもふさわしい気がするから。
集え、歌え、柔和な翼のもとに。
プランクトンの呟きやホッキョクグマの寝言に耳を傾け、南十字星から海面へと高度を下げ、海に溶けて深海まで。陽も差さない深海のクラゲの放つ光に眼を細め、徐々に浅瀬へと向かってから地表へと戻り、泣いている赤子の頬を撫でて。
さあ、共に歌おう。
再生の夢を、永久に紡ぐために。
1日に僕は地球のあらゆる場所をふためぐり。
さあ、生きとし生けるものたち、この旋律を感じて。
全てを紡ぎ続けるために、この歌で一つになろう。
リリン以外の生き物たちは本能的に僕を見分ける。けれど僕が何か働きかけなければ、彼らは僕に雄弁な沈黙で応える。彼らは僕のしている事を、説明されずとも理解しているのだろう。彼らはそこに在るだけで僕と共に流れる旋律だった。
リリンは僕に気づかない。けれども、それで構わない。僕は彼らの無意識の糸を束ねて紡げばいい。一つとして同じ色のないそれらを拠り合わせ、歓喜の歌を縦糸に、彼らから紡いだ糸を横糸に配し、夏至から冬至まで半年分の褥を織り上げよう。
僕は必ず、ひと巡りごとに彼のもとを訪れる。
(ねぇ、僕にだって、毎日このくらいのご褒美は許されてもいいだろう?)
彼の住む土地が春の盛りを過ぎると、ヒトの踏み込まない山々にも遅い春が訪れる。高原の花の香りを逃がさないようにしながら家の側の梢を揺らし、僕らの棲家の窓を叩いて…彼が顔を出すのを待つ。そして窓が開いて――ああ、よかった。笑っているね――その前髪をそっと掻きあげて、風と日差しに眼を細める彼の唇に触れる。彼には僕の姿は見えない。けれど、地上にあふれるリリン達の中で、彼だけは僕が世界と一体化していることを知っている。きっと僕を感じてくれているはずだ。
実は、僕は君のために、時々少しだけズルいことをする。君に吹く風が優しいように、東の海から回り込んだり、君をぬらす雨が暖かいように、少し遠回りして南の大地を通ってきたり。空が青いように、空気が澄むように、土がやわらかであるように。
君だけが僕を望んでくれたから。
君だけが、僕をここに引き止めてくれたから。
愛おしい、僕の半分。
君が微笑んでくれるなら、僕はどんな代償だって厭わない。
そして僕に出来る何もかも、君に優しくあるように…。
そしてまた四半周してから、彼女のもとを訪れる。
(彼女は僕と同じだからね)
やぁ、僕の半身。今日は何かいいことはあったかい? 君の側を通り抜ける時、僕は君の広がりだした心を感じて嬉しくなる。今日の君へのお土産は南の島国の椰子を揺らした風。次は南極の氷の粒にしようか。それとも世界で一番高い場所に巣をかけた鳥たちの羽毛なんてどうだろう?
君はリリンたち全ての母たる資質を内包している。だからその気になれば今の僕のように全てを感じることだってできるだろう。けれど、僕はできれば、君にその手で、その眼で、君の側にあるものから一つずつ知ってほしい。その為の時間は僕が作ろう、僕は僕に出来るかぎりの努力をするだろう。
あの時、君は僕を拒否しなかった。
全てを知りながら、僕を否定しなかった。
僕に架せられた偽りの使命に隠してはぐくんでいた、僕自身の望みを。
目覚めたアダムが厭うた程に、世界は汚れている。
化学物質は大地を蝕み、壊れた大気の層は強すぎる紫外線を招き入れて。温まりすぎて逃げ場のない熱はあちこちで災害の引き金となり、生き物たちの命を奪う。いつ何時崩壊してもおかしくないエデン。むしろ、破綻を迎えていないこと自体が不思議なほど。
それほどに危うい均衡を、それこそ奇跡のようにギリギリで保っていたというのに、世界はさらに僕たちという過剰なエネルギーを孕んでしまった。
判ってる。本当なら僕たちは留まるべきじゃなかった。
けれど、僕らにとっての神の子に等しい存在に願われて、どうしてそれを叶えずにいられただろう?
世界中から滅ぶ事を望まれた僕なのに。
一度は僕自身でさえ手放してしまったというのに。
君は最後の最後で僕たちを引き戻した。
天秤の梁が破滅へと傾くかもしれないというのに。
だから僕は、僕の持つ永久機関から吸い上げた力で綻びを繕い、脆くなった部分を補強して、出来る限り崩壊を遠ざける。
ヒトである彼のために。
君は自分を我侭だという。
けれど、本当に我侭なのは、君じゃない。
僕たちを望んでくれたその言葉に、僕がどれほどの喜びを感じたのか、きっと君には判らないだろうね。
我侭だったのは、君が生きる世界の安定さえ引き換えにして君の言葉に従ってしまった僕のほう。
だから僕はもう天使なんかじゃない。ただの風。こうやって飛べるのなら、翼が白くなくても構わない。
…本当は、僕にとって、価値があるのは君たちだけ。
けれど君たちがいてくれるから、僕にとっても世界の何もかもが連鎖していく。朝も昼も夜も、海も陸も空も、全てが渾然一体となって君たちが立つ場所になる、眠る場所になる。君たちが呼吸する空気、身を委ねる水、それらは繋がっているんだ。世界に無駄なものなんてほとんどない。だからこそ何一つ疎かにしたくない。君の、君たちの世界が、いつまでも続くように。
(そしていつか、僕もそこに留まれるだろうか)
その為に僕は、今日も歓喜の調べとともに世界を巡ろう。
ああ、青く丸い惑星の向こうから太陽が顔をだしてきた。
昨日は雨だったから、シンジ君は洗濯物が乾かないとぼやいていたね。
今日は、君たちのいる座標は晴れそうだよ。けれど俄か雨には気をつけて。
(なんなら、少しズルをして雨雲をどかそうか?)
レイ、そろそろ春のコートをしまっても大丈夫そうだよ。
シンジ君が君にと置いていったプランター、君が世話をしてくれるから、蕾がかなり大きくなっているね。
今からとてもよい香りがしてる、僕はそれが開くのが待ち遠しいよ。
君たちの側にいられない間、この世界の全ては僕と同じもの。
代償さえ福音となる。
なぜなら、この世界の全ては君たちと同じものでもあるのだから。
In the atmosphere――大気の中で、君たちを想う僕は幸福。
隔たれたものは、再び一つとなる。
Seid umschlungen, Millionen.
Diesen Kus der ganzen Welt.
『Hallelujah』
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