銀兎文庫::brave
以前から、そろそろヤバイかもと思いながらも騙し騙し大事に使ってきた自転車が、ついに壊れた。
お母さんと共有してるせいか、なんどもパンクしたりチェーンが切れたりして、そのたびに修理していたけれど、ずっと面倒を見てもらってた近所のバイク屋のお爺さんにも、次に壊れたらもう新しく買った方がいいと言われてた年代モノだ。
確かに、塗装もところどころはげてサビてきてたし、ブレーキは歯が痒くなりそうな音で軋むし、サドルのクッションはぺったんこだし、古いタイプのせいか車輪はちょっと小さかった。それでも十分に役にたってたから、まだ直せば使えるんじゃないかと思ったりしたけど、もうフレーム自体が痛んできてて歪みがきてることと、そのせいであちこち無理がかかって壊れやすくなってきてると言われてしまえば仕方なかった。
それでも残念がる僕に、お前さんくらい大事にしてくれる人に使われてたんだから、たとえ次でお役御免になっても、この自転車もさぞ本望だろうよとカラカラと笑われた。
「──なんだ、買い物って、自転車かよ」
学校帰りに、買いたいものがあるから店についてきてって頼んだら、意外とあっさり承諾されて返って拍子抜けした。
情報通のカッチャンから教えてもらった目当てのその店は、学校から10分くらいの距離にあるけど、学校をはさんで僕らの家とは反対方向にあるから、きっと面倒だからって拒否られると思ってたんだけど。
「で、どういうのがいいんだよ」
「ん〜安いに越したことない、かな」
整然と並べられた色とりどりの商品を眺めながら、ミルクティみたいな色の髪を寒風に揺らす相手に、最初に一番突っ込まれそうなところを振ってみる。
「そりゃそうだけど…」
俺が言いたいのはそこじゃなくって。
白い顔に呆れた表情と一緒にはっきりと浮かんだその言葉に、しっかり見てれば案外と判りやすいよなぁとこっそり胸のうちで呟いた。
「もっと具体的にあるだろ」
二人でやってきた店の前に並んだ左半分は、よく見かける折りたたみ式のものや、いかにも高そうなスポーツタイプのものとかでどれもカッコイイ。その分お値段も素敵な額だ。僕くらいの年齢の子なら、きっとこういうのが欲しいんだろう。けど。
そっちをさらりと一眺めした僕が、
「んー…買出しに便利だから、おっきい前かごは絶対欲しい。お米の袋ってかさばるし」
踵で半身を90度回して、残りの左半分に歩み寄るのを、まだしばらくは冬だぞと言いたげにぴぅぴぅと吹いてくる風に腕組みをして対抗してた美鶴が、
「…お前って主婦だよな…」
寒そうにしかめた眉のままでさらにぼそりと呟いた。表情だけとったら呆れてるふうだけど、口調は事実を再確認したって感じだ。
「えー、すっごい大事なトコだよ? 美鶴だって買出しにいくからわかるでしょ」
振り返る僕の疑問に、白いコートが肩をすくめる。
「俺の家は、そういう重くてかさばるのは、配達だ」
「あれ、そうだっけ。いいなぁ。いつから?」
「去年かな。マンションの下の階に、生協?だっけ?、そういうのの、まとめ役やってる人がいるんだ」
どうやら、美鶴のマンションには世話好きな人がいるらしい。…芦川家は、叔母も兄妹も美人ぞろいだから、世話焼きな人でなくても世話をしたくさせるのかもしれないけど。
残念ながら、僕のマンションはスーパーが結構近くにあるから、そういうのをやってる人がいなかった。
離婚後に看護師の資格をとったお母さんは、僕が中学に上がった頃に、勤めてた病院を変えて夜勤にでるようになった。一人で家に残しても大丈夫な年齢になったと認められたような気がして、ちょっと嬉しかった記憶がある。
家事の分担の配分が少し変わったのもその頃からで、体が大きくなってきて重いもの(たとえば5キロ入りのお米の袋とか)も運べるようになった僕が、主な買出しの役目を引き受けた。当然のように自転車を使って買出しに出かけるのだけれど、これまで使ってた自転車の前かごは少し小さいものだったから、荷物が入りきらないことも結構あった。
自転車にビニール袋を下げて乗るのは案外と難しい。買ったばかりの卵をハンドルに下げていたせいでダメにしてしまったことがある。両方のハンドルにぶらさげた袋が引っかかってコケたこともある。(しかも何度か)
特売の日はいつもより買い込んだりもするから、前かごがついてるかどうかというのは、真に実用的という意味でなら、僕にとって外せないポイントなのだ。
「今までのよりは大きいのがいいんだけど、お母さんも使うし…」
お母さんは普段原付のバイクを使っているけれど、バイクが駐輪できない場所には乗っていけないし、折角ゴールド免許なのに駐禁なんかとられたりしたら1年は落ち込むだろう。第一、ほんのちょっとした買い物なら、絶対に自転車の方が便利だ。
「だから、スカートで乗れないのもだめ」
普通ならきっとマザコンだなんだとからかわれるであろう条件には、
「…それは当然大事だろ」
一歩後ろで遠巻きにしてた美鶴が、何を当たり前のこと言ってるんだとでもいうようにツッコミをいれてくる。
「うん、そう。大事なんだ」
その言葉にくすぐったい温もりを感じて、僕は考える振りで口元を隠しながら、こっそりと笑った。
美鶴は、家族というものをとても大事に考える性格だけど、それを「優しいね」って指摘したらきっと、山ほどの罵倒とあわせて照れ隠しの蹴りが入るだろう事は、長い付き合いで十分に身にしみてる。
「そういえば、だめになったって自転車、サイズいくつだったんだ?」
単に眺めてるのに飽きたらしい美鶴がするりと隣に立った。わずかに上目遣いの位置から、大きくて茶色い瞳が僕を見る。
「え、と」
2月なんだから寒いはずなのに、何気ない目線一つでかっと体が熱くなる。
僕が美鶴の身長を越したのは秋の終わり。まだ、少し低い位置から向けられる瞳には慣れてないんだよね。
上目遣いとか、やっばいよなぁと上ずりながら、古い記憶を辿ることで場をしのぐ。
「…確か、車輪は24とか…」
記憶をなんとか引っ張り出して、参考までに札に24インチと書かれたものを眼で探した。さまよわせた視線の先ですぐにみつけたけれど、なんだか変な違和感がある。
「あれ、れ?」
今眺めているものは、車輪の大きさは同じでも、車体は僕が乗っていた自転車より小さいものばかりだった。そのことに僕が気づいたのと同じく、美鶴も気がついたらしい。
「なぁ、亘が乗ってた奴ってさ、確か大きさはこれと同じくらいじゃ…」
めちゃくちゃ寒がりのクセになぜか手袋をしてない手が、すぐそばにあった26インチと書かれた札をつけた水色の自転車を指差す。
「…だよねぇ?」
自分の体に馴染んだ記憶も同じ結論を出していた。違和感の理由はなんだろうと眺めていて気がつく。車輪と車体の比率が違うのだ。自転車にもある程度流行の型みたいなものがあるのかもしれない。
美鶴が指差した水色の自転車の前に立って、少し考え込む。
「これ、車輪は前より大きいけど、何年か乗ること考えたら車体が小さいかも」
僕の予定では、これからどんどん身長が伸びるはずなのだ。
「それなら、あっちの27インチとかがいいんじゃないか?」
それより大きいと小母さんじゃ困るだろうしな、といいながら、
「逆にあんまりちっさいと、今度はお前が困るだろうし…」
と小さく付け足した。
そうなのだ。
本当のところ、僕は少しばかり困ってた。
甘くなりかけていたブレーキが最近急に効きにくくなってることは、ブレーキをかけたときに起きるスリップの長さにはっきりと現れていたから、買いなおす気がないなら次に直さないといけないのはそれだった。たぶん、顔なじみのお爺さんに泣きつけば、直すより買った方が安いよって言われるにしても、とりあえずあと1〜2回は修理を引き受けてくれただろう。
けれど、僕が自転車を新しくすることを避けられなくなった一番の本当の理由は、この1年で伸びてきた背丈だった。
塗装がはげていようと、ブレーキのたびに歯が痒くなろうと、僕にはそんなことは大した問題じゃなかった。けれど、大きくなっていこうとする僕の体に車体が合わなくなってきていることは明白で、ペダルをこぐ時の窮屈なひざの痛みもだし、体に合わないサイズの自転車で5キロの米の入った袋を運ぶのは正直しんどい。
それ以上に…
とっても大事なものを運ぶとき、とっさに自由が利かないでコケるのは嫌だ。
最初は自分でも冗談ぽく考えてたそれが、近頃じゃだんだんとリアルな実感を伴ってきていた。
ふ、と寒さで赤みを増した美鶴の唇が息を吐いた。
「四の五の言っててもしょうがない。乗り心地を試させてもらえよ」
美鶴は根がリアリストだ。試した後で迷うことはあっても、試さずに迷ったりしない。(今日は僕の買い物だけど)
「ほら、荷物かせ。持っててやるから早く決めろ」
同時にそろそろ寒さに我慢ができなくなってきてるらしい。さし出されてきた冷たい手に逆らわず、かばんを預ける。
「わかった」
店の戸をあけて僕らのやりとりをちらちら気にしていた店長さんらしいお兄さんに声をかけると、組み立て途中のいかにも高そうなスポーツタイプの自転車の傍を離れて、快く出てきてくれた。
予算や母親と共有することなど、ざっくり条件を伝えてサイズを確かめたいので跨ってみていいですかと聞くと、僕の身長なら少なくとも27インチ、できれば28インチがいいと、4台ほど選んで薦めてくれる。
教科書の詰まった二人分のかばんを重たげに下げた美鶴に「とにかく乗ってみろよ」と急かされて、とにかく跨ってみた。
27インチを2台と、28インチを2台と。
それぞれに跨ってみれば店長さんの言うとおり、車体のバランスとかハンドルにかかる手の位置とか、28インチの方がしっくりくる。それも、最後に試してみたものが一番扱いやすそうだ。買ってしまえば数年使うことを考えれば、やっぱり28インチの方がいいなと思って少し迷っていると、僕が今跨っているタイプはサドルの調節が低くしやすい造りだから、お母さんの身長が155センチくらいあるなら、こっちの28インチでも全然大丈夫だといってくれた。
結局それが決め手になって、僕は28インチのその自転車に決めた。「車体の色だけど、赤と黄色と白があるよ」と聞かれて、薄い色は汚れやすいから、出資者のお母さんが好きな赤にする。色がどれも女の人向きなのは、選んだのがファミリーサイクル、いわゆるママチャリだからだ。でも、これならどんな人でも乗りやすい形だし、お値段もぐっと魅力的なのでありがたい。
「じゃぁ、細かい備品を選ぼうか?」
人好きのする笑顔の店長さんに、そっちはカタログ見てもらわないといけないから店内でと中に通されて、寒がりな美鶴は暖かい店に入れてほっとしてるようだった。小さなカフェテーブルみたいなところに一緒に座らされて、サドルだとかライトだとかスタンドだとかを見せられる。思ったよりも選べる幅が広い。もちろんちょっと高そうなのは無料じゃなくてオプションだったけど。
「前かごは眼の細かい方の大きいこっちで、鍵は二重のこれにして、スタンドは片側じゃない奴がいいです…えっと、これで。」
ライトはLEDとかいうのを使った明るい奴が便利だというのでそれにした。驚いたことにペダルのタイプまで選べるようになってて、スリップしにくいものにするならプラス500円。雨降りの日のことを思えばそれも必要かなと思って、あわせて頼んだ。
美鶴に、『どんどんママチャリ仕様になってくな』と笑われたけど、それが僕をからかうと言うよりは感心してるらしいってことが感じられるので気にならない。
「かごネットとか、傘つける道具なんかはいいのかい?」
僕にそう聞きながら店長さんもちょっと口元が笑ってたけど、これもなぜだか不思議とプラスの意味だと判った。
「それは今あるやつ使います」
期せずして即答で返した言葉に、美鶴が僕のわき腹をひじでつついて「だろうと思ったよ」と嘯いた。にやにやと可笑しそうに細められた眼がこらえた笑いで潤んでる。今度はちょっぴりからかう口調だ。なのに。…ちくしょう、可愛い。こんな顔も滅多に見れないから、怒れないじゃないか。ずるい。
怒りたいけど怒れない僕は、美鶴のわき腹に軽くひじを入れてやり返した。「うわ、やめろよ」と笑いながら身をよじる美鶴は、普段よりずっと年相応に見える。
どうやら僕は、いいタイミングで買い物に来たらしい。引越しや入学のある3月や4月は自転車のモデルチェンジがあって、その前にやる在庫セールに乗っかれたということだった。新品なのに本体の値段がびっくりするくらい安くて、そこそこのオプションをつけたけれど、店長さんの手元の明細書に書き加えられた額は、予算までまだ少し余裕があった。
「あ、あと、」
僕的に優先順位はもしかしたらこれが一番かも。いや、自分に誤魔化したって意味ない、けど。もしかしたら、じゃないだろ、自分。
「荷台もお願いします」
「荷台まで?」
さすが亘、最強のママチャリだなと美鶴が口笛を吹く振りをした。珍しいなんてもんじゃない。でも、こんなに楽しそうな美鶴は滅多にみられないから、もういいや、からかわれてるんだろーが何だろーが。
「最強上等。前かごに入れられない大事なものを、荷台に乗せるんだからこれでいいの。」
そういった僕に、美鶴が怪訝そうな顔で、
「…米袋なら、10キロとかじゃなきゃ前かごに入るんじゃないの?」
と呟いた。
防犯用の届けやら何やらを書いてたら、在庫を調べてくれてた店長さんが、ちょうど全部揃うというので、組み立ててもらえるまでそのまま待つ。店長さんは慣れた手さばきで、15分もしないうちに全部の備品をつけてくれた。
お礼を言って店を後にしながら、帰り道を新しい自転車を押しながら歩く。英語の辞書も詰まったカバンは大きな前かごに余裕ですっぽり納まってるし、車輪が大きいから段差を超えるのもすごく軽い。ブレーキもキュッと小気味のいい音を立ててしっかり止まる。ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ〜〜〜と、むず痒くなるような音を立てながらずるずる滑ったりしないのには本気で感心した。
「うわ、すっご! 見て、ブレーキかけたらぴたっと止まるよ美鶴!」
壊れた自転車にも妙な愛着があったけど、やっぱ新しいって凄いなぁと思いながら顔を上げると、そこには心底呆れたって顔があった。
「…ブレーキで止まらなくてどうするんだよ…」
お前これまでよく無事だったなぁとしみじみと言われて、確かにそうだったかもと苦笑いが出た。
「それはまぁ、なんていうか…馴れかな、うん」
きっと、僕はあんまり長くあの自転車に乗ってたから、多少のガタがきてもすぐに合わせて感覚が馴れちゃってたんだろう。思えば、坂道とか雨上がりの濡れた路面でのブレーキの掛け具合やタイミングなんかは、ほとんど脊髄反射だった気がする。滑りそうになったら微妙にカウンター当ててたような。
「まぁ、これで小母さんが乗っても危なくないんだし、よかったじゃん」
そうか。言われてみれば。この自転車の感覚に慣れてるのは僕だけじゃなくて、きっとお母さんもなんだけど、確かにそうだ。でもね、危なくなくなるのはお母さんと僕だけじゃなくて。
「これでもう、一番大事なもの乗せても大丈夫」
思わず呟いた言葉は、どうやら美鶴に聞こえてしまったようだった。
「ああ、なんかさっきもそんなこと言ってたな。っていうか、前かごにも入らないとかさ、お前いつもどんだけデカイ米袋買ってるんだよ」
何を想像したのか、ぷっと吹き出して、美鶴が肩を振るわせ出す。
だからさぁ、乗せたいのは米袋じゃないんだけどなぁ。
恐ろしいくらいに頭が良くて聡いくせに、変なとこだけぽっかり抜け落ちたみたいに鈍い魔道士様に、僕はどうやってそれを伝えればいいんだろう?
僕は近頃そんなことばっかり考えてるっていうのに、さ。
このあったかい雰囲気や距離を壊したくないけど、反対に、壊したがってる僕がいて。
壊したがってる僕が、かなり優勢になってるっていうのに。
引き止めるのは、伝えることで嫌われたらどうしようってただ一つの錘しかない。
しゃーっと軽い音を立てるピカピカの自転車を左に、いまだにくすくす笑ってる美鶴を右にして歩きながら、何かきっかけがあればと思っていた。
勇気を出すにしても、嫌われたときのことを考えるとやっぱりぷしゅっとしぼんでしまう。自分でも情けないけど、何かきっかけさえあれば、と、もう何ヶ月も心の中で繰り返してた。それが何かは自分でもわからないけど、たぶん、ほんの些細な何かで、壊したい僕がすぐにでも邪魔な錘を投げ捨てるだろう自覚もあった。
いつもは通らない道を使っているせいで、普段は帰宅に使わない坂道に出た。長くて、まっすぐで、ゆるい下り坂。陽はもうすぐ落ちるんだろう、だんだんとオレンジ色に染まりだしていて、坂道まで張り出した民家の庭木がところどころに影を伸ばしてて。すっくりと伸びた長い道の光景は、まるでガサラの町の長い目抜き通りを思わせた。突き当たりにあるのは大樹じゃなくて信号だったけど。その信号が遠くで赤から青に変わるのが、なぜだか妙にはっきりと眼に飛び込んできて。
何かに、背中をとんと押された心地がした。
片手でブレーキをぎゅっと握ると、新しい自転車は素直に止まる。反対側の手で、僕の変化にまだ気づいてない美鶴の肘を掴んだ。そこを支点に、半歩早く止まった僕の体が重石になって、美鶴の体が後ろに引っ張られる。
「ぅわ…っ、ちょ、何すんだよ?」
泳いだ体を立て直して振り向いた顔は、僕の行動を意味不明だと唇を尖らせている。肩からずり落ちかけたかばんを無意識に直している白い手。手袋すればいいのに。寒さで指先が赤くなってる。
「──美鶴。後ろ、乗って?」
僕の声は、自分でもどうしてと思うほどに落ち着いてた。
「え?」
美鶴の声は、いっそ不思議なくらいぽかんとしてた。意味がわからない、って表情。もう、ホント変なところで鈍いんだから困る。
「さっきも言ったでしょう? 荷台には、前かごに入らない大事なものを乗せるって」
捉えたひじを離さず、視線も外さず。
とうとう、壊したい僕が前に出てしまった。
美鶴の頬がわずかに赤くなったのは、夕焼けのせいじゃない、と、思う。でも、僕の言葉に混乱してるのか、美鶴は黙ったまま。
ちょっと待ってみたけど、本当に美鶴は瞬きもしなかった。
「あの──僕の言ってる意味…わかる?」
な、なんか、美鶴が固まっちゃったみたいだ。返事もないし動かない。
「…み、美鶴?」
どうしよう?こんな反応は考えたことなかった。美鶴の性格なら、嫌なら嫌、いいならいいで、きっぱりしてるだろうって思ってたし、下手したら気持ち悪いって殴られて友達関係すら解消された挙句に一生口を利いてもらえなくなることだって覚悟しなきゃって思ってたのに。
まるで電池が切れた自動人形みたいに動かないなんて、想定外だ。
坂に入ったすぐの場所で顔を見合わせながら立ち尽くす僕たちは、通りがかった人から見たら僕たち以上にわけが判らないだろう。
「──35点」
肘を僕に掴まれたままの美鶴が、やっとしゃべった。よかった、固まってなかった。
と思ったけど、なんか昔聞いた記憶のある言葉だ。35点は、僕が幻界でラウ導師さまにつけられた点数じゃないか。
「そんな中途半端な言い方じゃ、判ってなんかやるもんか」
「へ?」
予測不可能な反応に焦ってた僕に、目の前の美鶴の唇が、片側だけきゅっと上がって。
「判ってなんて、や・る・も・ん・か」
そして、これ以上ないってくらいににっこりと微笑まれた。
…はい?
ちょ、待ってよ何それ? 僕はどう解釈すればいいのさ?
えっと、判ってやらないっていうのは、Noってこと? そんな!
いや、でもその前に何か言ってたよね、ええっと、僕の言い方がどうとか…しっかり思い出せ僕!
『そんな中途半端な言い方じゃ』
そうだ、そういわれた。
それじゃわかってやらないって、ことは…?
じゃぁ、どうすれば判ってもらえる…?
壊したい強気な僕は、混乱した頭の中でもう半分くらいに目減りしてた。でもそれも仕方ないよ、だって普通は、告白したら、YesにしろNoにしろ保留にしろ、何か返事がもらえるはずだもん。
けれど、すっかり忘れてたけど芦川美鶴は、とことん普通じゃないんだった。
中途半端な言い方がダメだというなら、正攻法でいくしかない
緊張しすぎて、ごくり、と喉が鳴る。うわ、すんげー恥ずかしい!告白のやり直しなんて普通ないよね!?
でも今更どうしようもないし、好きだってのはバレちゃってるんだし、もうここは死ぬ気で思い切るしか!
ぐるぐると眩暈がしそうな気持ちでは余裕もへったくれもない。思わず自転車を支えていた方の手も離して掴んだままだった肘に添えると、がしゃん!と派手な音がして買ったばかりの自転車が倒れた。でもそんなことより、今はもっと大事なことが──
「あっ、あしかわっ」
緊張で裏返りかけの声に、なんだよ、と目線が先をさとす。
「──芦川美鶴がっ、好きですっ」
それだけを言うのが精一杯で、何でさっきはあんなに落ち着いていられたのか、今やもう顔から火が出そうになってる僕に、綺麗で可愛い顔がにやっと笑う。
「詰めが甘いから、60点」
えええ、そんな、中途半端とか詰めが甘いとか、どうすればいいんだよ!
第一、好きですってこんなにはっきり言ったのに、どこがどう甘いんだろう?
今の今までこれもすっかり忘れてたけど、そうだ、芦川はいじめっ子だった。…それも、どうやら僕限定の。
もしかして、今って、僕…遊ばれてるんじゃないだろうか。
「…傷ついてないか?」
え、それもしかして僕を思いやってくれてるの?と淡い期待をした僕の視界の中で、当の美鶴の視線は転がったままの新品の自転車に注がれてた。
…やっぱりね…いや、こんなことでいちいち挫けてたら、美鶴を好きでなんていられないんだけど。
でも、僕の告白を中途半端だと言った美鶴は、自分だってよく判らない返事しかしてないじゃないか。それはちょっとずるいと思う。
美鶴は、Yes、No、どっちなの。
勇気を奮い起こして意を決した僕が、美鶴にもはっきりとした返事を迫ろうと思ったとき、その美鶴がひょいとかがんで自転車を起した。
「ほら」
自転車の車体を押し付けるようにするので慌ててそれを支えると、
「カバンも」
「あ、うん…ありがと」
投げ出されてたカバンも拾って前かごに入れてくれるので、気勢を制された形になった僕は、ついお礼なんか言っちゃったりして。や、ありがとうは人間関係の基本だけど!でも、美鶴からはっきりした返事を聞くんじゃなかったのかよ、僕。ああ、こういうところが、いまいち僕がリードを握れない理由なんだろうなぁ。
自分で自分にツッコンだり反省したりしていると。
美鶴が、僕の支えてる自転車の荷台にひらりと跨った。
──え?
最初は願望が見せた幻覚かと思った。でも、その幻覚は、いつも通りの生意気な口調で言うのだ。
「俺を乗せてるときにコケたりなんかしたら、絶対許さないからな?」
それは確かにいじめっ子の顔だけど、どこか妙に機嫌がよさげな感じで。
「…美鶴? あの、つまり、Yes…で、いいの?」
「嫌なのかよ」
恐る恐る確認すると、とたんに口元が尖る。
「や、じゃなくって! つまりその、僕の好きって、えっとだから」
決して美鶴を怒らせたいわけじゃないけど、僕には曖昧な答えで可とできない最大の理由があるのだ。
夢にみちゃうくらい美鶴が好きで、その、僕の夢の中では、めくるめくバラ色の展開があって。自分でもびっくりするくらい大胆なことも夢の中ではしちゃったりして──自分でもどんだけ想像たくましいんですか自分!って思うけどさ、だって仕方ないじゃない、思春期なんだよ、僕。
「き、キスとかっ、そういうのもしたいって“好き”なんだけど、わ、わかってる?」
これを言うには、さっき振り絞った以上の、それこそこれまで生きてきたのと同じくらいの勇気が要った。でも、ここで確認しないで後で早とちりでした、じゃ、あまりにもあんまりだ。立ち直れない。
「それは、80点になったら考えてやる」
そういって口の端を引き上げた美鶴は、少し頬を赤くしてた。
「それまでは見習いだからな」
ほら、寒いから帰ろうぜと促されて、恋人見習いの称号を得た僕は、恋人までの20点をどうやったら埋められるのだろうと途方にくれながら、自分も自転車に跨った。
目の前には長い坂が、さっきより濃いオレンジに染まっている。
その先に、僕の答えは本当にあるのだろうか?
「わーたーる。寒い。帰ろうぜ」
前かごには入らない何よりも大事なものに、つんつんと背中をつつかれ、がっくりと肩を落としながらペダルを踏みしめる。
想像の上をいくよ、芦川美鶴。
もし告白してOKしてもらえたら、すぐにでもキスしちゃったりなんかして、とか想像してた過去の壊したい自分を胸の中で墓穴を掘って埋めて。
「…ちゃんとつかまっててね」
嘆いたり落ち込んだりしながらも、見習いを脱するまで絶対に挫けたりしないであろう自分を密かに自覚しながら、20点を埋めるための毎日に向けて、長い坂道を走り出した。
後日談。
春休みになって、桜が咲き出した。
窓から見えるマンション前の桜並木で花見ができる美鶴の家に、いただきものの桜餅をお土産に赤い自転車でやってきた僕は、小母さんが買ったという桜の紅茶を入れてくれた彼に、ここしばらく僕を悩ませ続けている新しい疑問を考えあぐねて、思い切って聞いてみた。
「ねぇ、美鶴がいう“詰めが甘い”ってなんだったの? 僕、ずっと考えてるけど、どうしてもわからないんだけど…」
一瞬きょとんとした顔で僕を見た美鶴だったけど、ああ、あのことかよ、と思い出したようだった。
「なに、お前まだわかんないんだ?」
ちょっぴり意地悪に口元を上げる美鶴に、20点アップを目指してなりふり構ってられない僕は、勢い込んで詰め寄った。
「だって、あんなにはっきり好きって言わせといてさ、どう詰めが甘いかなんて、わかるわけないじゃん!」
美鶴がつけた60点が80点に達しないと、いつまでたっても見習いのままで、キスすらさせて…いや、考えてももらえないのだから必死だった。
「じゃぁヒント。好き、だけで俺が判るのは、お前の気持ちだけだろ」
それは確かにそうなので、1つ頷く。
「じゃぁ、お前がどうしたいかは、俺には判らないだろ──って、これじゃ答えと一緒かな…」
長い睫がカップを傾けるのに合わせて伏せられるけれど、僕にはまだ判らない。
僕がどうしたいか?
そりゃ、美鶴が好きだから、ラブラブデートしたり、できればキスとか、もっといえば、その先とか、そういう親密なお付き合いがしたいわけで──って、あれ?
もしかして。
「あの、美鶴?」
ん?、と伏せられてた睫が上がる。
「…僕と、付き合ってください?」
「なんで疑問系なんだよ」
語尾が微妙に上がった僕の言葉に、美鶴が吹き出す。
「ま、いいけどさ──丸判りのヒントありだったから、せいぜい10点ってとこだな」
ええ〜っとわめく僕を完全にスルーして、まぁ後10点がんばれよ、と、美鶴の指が僕のおでこを小突いた。
──僕限定のいじめっ子の顔で。
you wish ? -- ...retuern brave
以前ブログで「中学生わたみつ恥ずかちい!」と悶えてた曲のイメージで浮かんだお話。
お友達のloidのリクエ様が描かれたワタミツイラストがまたイメージぴったりで、
もやっとしてたお話が俄然くっきりしてきて、超遅筆な私がものっそい勢いで書いちゃいましたw
燃料あると違うなぁ、私w
このお話はloidのリクエ様に(勝手に)ささげますv
さて、ワタルさんがどうやってあと10点埋めるのか考えてない。
…とかゆったら、ワタルさんに泣かれそうかなw
本当は、美鶴さんに恨まれそうなんですけどね!
そしてママチャリのしっくりする写真がなかった。
自分でも前かごとか荷台とか詳しく書きすぎた気がする。
ginto-bunko